[Reason Inside]
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 遠い水平線に沈む夕日が消えたところで、白い妖魔はふと嘆息した。別に気を詰めて見つめていたわけではない。ただ、ふと夕日に目を向けた瞬間から、目が離せなくなってしまった。それだけのことなのに、もうかれこれ半刻近く、消え行く間際の輝きを見つめていたようだ。それに気付いたとたん、どっと疲れたような気になり、彼は草の上へと寝転んだ。
 ふと頭だけを起こしてみれば、湖の対岸――先ほど夕日が沈んだ場所から少しばかり左手――にゆらゆらと漂う小舟が見えた。ああ、人間か。そんなことを聞く者もいない中、小さな声にしてみる。このリージョンでは当たり前の光景だ。もちろん、興味をそそられることもなく視線を空へと戻す。訪れる藍色と未だ残っている橙色が奇妙な色合いを作り出していた。
『早く帰ろう』
『妖しにさらわれる』
『二度と帰って来られない』
『母さんのご飯も食べられない』
 彼の後ろ、うっそうと茂る奥の森からそんな歌声が聞こえる。子供たちが家に帰るのか、歌の合間に甲高い笑い声が入り込み、それが少しずつ遠ざかっていくのをどこか懐かしげに聞きながら、では自分も帰ろうか、と彼が体を起こしかけたその時、ふいに空間の歪みが感じられた。
「誰だ」
「誰だとは不躾なもんだ」
 言いながら現われたのは人の姿とは程遠い緑色の肌をした妖魔だった。独特の悪臭にとっさに邪妖だと気付いたが、口には出さず軽く眉を顰めるだけで済ませる。
「人間の子供のうまそうな匂いがしたんだがな、仲間の気配がしたもんで来てみりゃあんたがいたってわけさ」
 そう言って男は下卑た笑いをこぼして、白い妖魔の全身を嘗め回すように見た。
「それに、あんたのご馳走に手を出しちゃ悪いしなあ」
「私には人間を食らう習慣などない」
「へえ、そうかい。なら、あの獲物はもらってもいいんだな」
 こちとら腹が減ってるんでな、と付け加えてすぐさま男は転移を始めようとする。それを見た白い妖魔がその腕を慌てて掴む。
「何だい?」
「あの子供たちに手を出すな」
 その言葉に邪妖は一瞬驚いた顔をしたが、それが笑い声に変わるまでに一秒とかからなかった。
「あんた馬鹿か?」
 そう言って腹を抱えて笑う邪妖にも勤めて冷静に白い妖魔は、あの子供たちに手を出すなということをもう一度繰り返す。そこから食う、食わないの押し問答が続く。どちらも一歩とて譲らぬままだったが、やがてそれも邪妖が白い妖魔の体を突き飛ばしたことで状況が変わった。
「いちいちうるせえ野郎だ」
 そう吐き捨てて転移しようとした男だったが、周りの空気が震えたことに気付いてふと動きを止めた。
 大きく空間の歪む感じ――先ほど邪妖が現われた時とは比べ物にならないほどのもの――がして、二人そろってはっと息を飲み、その一点を凝視する。やがて、そこに一人の男が現われた。人の血のように赤い髪を後ろで軽く結わえ、真っ黒な服に身を包む男。だが、先ほど以上に、白い妖魔が眉を――いや、顔全体をしかめたのは、その体から溢れる花の香りのせいだ。
「やあ、こんなとこにいたのかい」
 そう言った男を二人はそれぞれ違った顔で見つめた。一人は意味を解さないまでも憮然とした表情、もう一人の顔に浮かぶのは恐怖のみ、今にも死んでしまいそうな表情。それが何を表すのかは明確だった。
 「そうそう、君ね。オルロワージュ様から命令を預かってるんだ」
 当然といった顔で妖魔の君の名を出した紅い妖魔の一言に、邪妖はその顔をいっそう引きつらせた。
 「お、俺に何かご用でしょうか。黒騎士さま……」
  うめくようにそう返したものの、彼がこの紅い妖魔に怯えているのは誰でもわかる。今や膝をつき、何か懇願するように追跡者を見つめ、まるで命乞いをするかのように手をすり合わせる。しかし、それに対して紅い妖魔は軽く笑い声を漏らしただけだった。
「そう怯えるもんじゃないよ。別に命までとったりはしないさ。ただ――もう金輪際ファシナトゥールに近づかないと約束するんならね」
 そこまで話が進んでようやく、白い妖魔は紅い妖魔がここに現われた理由に気付いた。通りで見慣れない表情だと思った。何より、彼との付き合いは長いが、仕事に従事している時の彼などほとんど見たことがない。
「約束するね」
 その言葉は言い聞かせるようで有無を言わせない。いや、有無を言わせないのは彼の格が高いのもある。そうとなれば、この邪妖ができることはただ一つ。慌てて首を縦に振るとあっという間に姿を消した。
「――さて」
 一瞬の出来事をさっと見送り、紅い妖魔がようやくもう一人の妖魔へと向き直った。「今度は君だ」
 それに白い妖魔がその淡い紫の瞳を見開いた。なぜ自分が問い詰められる立場にあるのか。自分が何をしたのか。そう言いたげな視線を振り払い、突っ立ったままの相手に座るよう促すと、紅い妖魔もまたフロックコートの裾を優雅に翻しながら隣に腰かける。
「あいつとは知り合いかい?」
 最初に投げかけられたのはそんな疑問だった。それに白い妖魔が首を横に振って答えを示す。それからはまるで尋問のように、次々に質問が繰り返されたが、それにも白い妖魔は一言も口をきかず、ただ首を振るだけで答え続ける。
 やがて、先に根をあげたのは紅い妖魔の方だった。
「まったく、何か言ってくれてもいいんじゃない? だいたい君ってさ、昔に比べて愛想が悪くなったよ。それもこれもあんなところに引きこもって――」
「あんなところで悪かったな」
 ようやく開かれた口から出たのは、そんな不機嫌をそのまま吐き出したような言葉だった。あまりプライドなど持ち合わせていない性質ではあったが、紅い妖魔のその一言にはひどく機嫌を悪くしたのだ。何せ、あんなところなどと言われた場所は他ならない自分の手で作り上げた場所なのだから。
「あれ? 怒っちゃった?」
 なのに、この男ときたらそれすら理解していないのか、平然とそんなことを聞き返してくる。いや、わかって聞いているのだ。そんな性格であることはもうずっと前からわかっている。
「ねえ、謝るからさ。さっきの言葉は取り消すよ。君の住んでるところときたら、ほら……群青の中に星がダイヤモンドのように輝いて――」
「うるさい」
 とってつけたような賛美ほど馬鹿らしいものはない。そう顔をそむけた白い妖魔に対して、少しずつ距離を縮めて今や相手の顔を覗き込むまでになっていた紅い妖魔は、ぱっと体を引いた。だが、その程度の拒絶でへこたれるような彼ではない。立ち上がって数歩足を横にずらしたかと思うと、今度は白い妖魔の背中にぴったりと体を合わせるような形で腰を下ろす。
「後ろ、取っちゃった」
 ふざけたそぶりでそう言うと慣れた手つきで、今しがた顔を背けられたばかりの相手の体に腕を回した。された方はされた方で少しばかり反応を示したものの、また元の無関心を決め込む。いつからか、当たり前のようになってきたことだ。
 だが、その状況がふいに動いた。動かしたのは他でもない、白い妖魔だった。
「ゾズマ」
 まるで思い出したかのように、紅い妖魔の名を呟く。だが、いくら待てども、続きが彼の口から出てくることはない。ついに痺れをきらした紅い妖魔が催促をしようと口を開いたその時だった。
「どうして、あの邪妖を追いかけていたんだ」
 尋ねるようでそうでないような呟きを出すと同時に背後でふっと息を吐く音が聞こえた。続いて「なんだ、そんなことか」と少し気の抜けた声が返ってくる。それでも白い妖魔の疑問に答える気になったのか、まるで小さな子供に言い聞かせるように相手の白い髪を撫でながら紅い妖魔は話し出した。
「簡単に言えば、あいつはファシナトゥールでしてはいけないことをしたのさ」
 ファシナトゥールを治める妖魔の君は、自分のリージョンが穢れることをひどく嫌がるのだと言う。特に、他の妖魔が自分の領域内で人間を食すことを良しとしない。それは人間が殺されるのが嫌なのではなく、人間の血で己のリージョンが穢れるのを嫌うだからだ。
 しかし、あの男は別のリージョンからひょっこり現われた挙句、よりによって針の城の近くで人の肉を食べようとしたらしい。人間を殺してその肉を引きちぎろうとしたその時、たまたま通りかかった衛兵に発見され、男は逃走した。
「でもよかったよね。今日は珍しくオルロワージュ様の機嫌が良くて、ちょっと厳しく言って来いってことで済んだんだ」
「だからと言ってお前がわざわざ出向いたのか?」
「あの方にしたら僕らは単なる手駒。どんな役職を与えられてたって、やれって言われたことは例え靴磨きでもしなきゃいけない」
 そんなものなのか、と納得はしてみるものの、白い妖魔にとってそれはまったく知らない世界のことだった。彼は発生してから今まで、誰かに仕えたこともなければ、誰かの支配下に置かれたこともない。とりあえず主らしき者はいることはいるが、彼に何かを強要しようはしない。ただほったらかして、好き勝手しているところにたまに顔を見せるだけだ。
 それに比べて、紅い妖魔は何と窮屈な世界に生きているのだろう、と思うこともあったが、何より彼がそんなことを気にしている風ではないこと、自ら望んでその状況にあるのだということを知っている。それは愚痴を笑いながらしゃべる男の姿を見ていれば誰でもわかる。
「で、質問は終わり?」
 ふいにそう聞かれて白い妖魔は言葉に詰まった。ふと疑問に思って口にしたものの、理由を聞いてしまえばもはやこれまで。それがなくなれば、別に無理やり話をする必要も無く、自然と口をつぐんだ白い妖魔の様子をしばらく伺っていた紅い妖魔も、普段の口数の多さを押さえ込んでしまった。

 いつしか、藍色の空が濃紺に変わり、空に星が瞬き出す。夜が来たのだ。湖の対岸に、ちらちらと揺れる港町では今頃、人間たちが自分たちの家で、もしくは酒場で一日の疲れを癒す前のひと時を楽しんでいるのだろう。
 それとは逆に、こちら側は驚くほど静まり返っている。奥の森からはたまに夜行性の獣が動き回る音が聞こえるがそれもすぐに止み、あとは湖の波が打ち寄せる音だけが絶え間なく続くのみ。
 そんな中、紅い妖魔がふと口を開いた。
「本当は消滅させてもよかった」
 唐突に言われた言葉に腕の中にいた男がぴくりと動いたが、それも一瞬のことだった。彼の言わんとしていることが何をさしているのかはすぐにわかったのだ。だが、それがなぜ消滅などと結びつくのかは理解できない。
「何でか気になる?」
 そう聞かれて、白い妖魔は素直に頷いた。だが、飄々とした様子で聞かされたその答えに、今度は馬鹿馬鹿しいといわんばかりにため息をつくことになる。
「君があいつに、あそこまで感情をむき出しにしたのが許せなかったのさ」
 それだけ言って紅い妖魔は小さく口笛をふき出した。そのメロディをどこかで聞いたことがある、と耳を傾けていた白い妖魔も、それが何なのか気付き、ふいに唇をかみ締める。
 いたのなら、さっさと出てこればよかったのに。
 そう呟いた白い妖魔に紅い妖魔は平然と言ってのけた。
「窮地に陥った時こそ、助けがありがたく思えるだろう?」
 もちろん、その言葉に白い妖魔が悪趣味だと顔をしかめたのは言うまでもない。

|| THE END ||
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