[君影草] -prologue-
文字サイズ: 大
 白が青に染まる時、彼はもうこの世にいないだろう。
 だからせめてその色を、この小さな花で思い出せるように――。


 目の前が真っ暗になる、とはよく言ったもので、瞬間目の前を染めた闇は、少しの間その光景を拒絶するように――いや、むしろその光景を見たショックから男を守るように覆いかぶさった。
 しばらくしてようやく晴れた視界に入ったのは真っ青な血の海。いつも彼がいた場所の手前、広がった青い血は男が入ってきた扉のすぐそばまで広がっていた。
 そして、その部屋のそこら辺についているいくつもの足跡。彼の足跡を探して床に近付くと、あちこちについている足跡とは別にほとんど動いた形跡のないものを見つけた。
――ほとんど動かなかったのか? 否、動けなかった?
 『サイキックプリズン』という魔術がある。その名の通り、敵を術の檻の中に閉じ込め、その者が使う術を封じる術。それが使われたのだということはすぐにわかった。人間の、魔術を使う者がそうやって敵を倒しているのを見たことが何度もあったから。そして相手がその檻に閉じ込められたまま、動くこともできずに消滅していったことも。
「だから、剣を教えてあげるって言ったのにさ。君ってば、術は使えるのに剣や槍はからっきし……」
 死んだ者は強力な術を使った。『時術』――時の流れを操る術。主が戯れで教えた、古来存在したと言われるその幻の術に魅せられ、彼が研究を始めたのはもう四百年も前になる。
 やがて術は完成し、この世に伝説の時術は蘇った。しかし、その資質が他者に渡るのを恐れた彼は、時を止めることによって再び、時術を封印することにしたのだ。
『私はとんでもない化け物を蘇らせてしまった――』
 最初の眠りにつく直前、彼がそう呟いたのを覚えている。
「君の手の中で眠っていた子猫は――凶悪な獅子に変わってしまうかもしれないね」



 胸騒ぎがしたのだ。だからここに駆けつけた。
『私は近いうちに命を狙われることになる』
 つい先日。毅然とした態度でそんな恐ろしいことを言った彼に男は笑顔で返した。
『大丈夫さ。君ほどの妖魔がたかだか人間一匹に負けるわけがない』
『一人で来るとは限らないだろう』
『だったら僕を呼んでよ。君の代わりに、僕がそいつらを皆殺しにしてあげる』

「なのにどうして、呼んでくれないかなあ……」
 彼がよく腰掛けていた椅子に座り、静かに目を閉じる。
 ここでこうしていれば、このリージョン中に広がる彼の妖気を感じることができるのに。なのに、一番会いたい『彼自身』はもうこの世にはいない。彼は完全に『消滅』してしまったのだ。
 そういえば、自分がこのリージョンに到着した時、ちょうど入れ違いに消えた気配があった。人間とメカとモンスターと――よく知っている妖魔。
「あんたがまさかフィオロを殺すのに加担してたとはね」
 すっと開かれた瞳はかつて恐れられた戦士のそれ。そこにある殺意を隠そうともせず、男は静かに立ち上がると、そっと床に膝をつく。
「大丈夫だよ。後は僕に任せて」
 優しくそう囁くと、まるでその血の持ち主を慈しむように、残された血だまりに口付けを落とした。

NEXT