[君影草] -01-
文字サイズ: 大
 静かなところへ行きたい。

 そんなことを思ったのは初めてだった。何がそうさせたのか。
 常に放浪し、おそらくこの世に存在するリージョンのほとんどに行ったというのに、今までそんなことを思って訪れたところなどない。ただ、興味がわいた。ただ、おもしろそうだった。そんな好奇心だけで訪れた数々の場所の中から「静かなところ」をと考えてもぱっと浮かんでこないのは、それぞれの場所が彼にとって取るに足らないものだったからだろう。――少なくとも「あの場所」を除いては。
 最初に思い浮かべたのは言うまでもなく「あの場所」。しかし、とゾズマは静かに首を横に振った。
 あそこへは行けない。確かにあそこは静かで、落ち着くかもしれない。だが、あまりにも思い出が深すぎる。
 見るもの、触れるもの全てが「彼」に通じる場所だからこそ、今は近づけない。実際、それから逃れようとしてこうしてぶらぶらとうろついているのだ。あそこへ戻ってしまっては本末転倒。
「どこか、いい場所ないかなあ……」
 色々考えているうちに賑やかな街を抜け、気がつけば薄暗い裏通りへと足を踏み入れていた。
 そこではた、と気付く。ここには例の男がいるではないか、と。彼に聞けば、何か知っているかもしれない。それに、彼とは少し話したいこともある。
 これはちょうどいい、とばかりにゾズマは冷たく降りそそぐ雨の中、階段を下りると、薄汚れた白い建物へと向かって走り出した。



「これは珍しい客だな。何だ、病人でも連れてきてくれたのかね?」
 開口一番、そう言って低い声で笑った男は、眼鏡の奥の瞳をすっと細めた。人間や下級妖魔なら間違いなく震え上がって逃げ出すであろうその仕草にもゾズマには慣れたもの。平然とした顔で手術台に腰を下ろすと、お得意の笑顔を浮かべた。
「あのさ、静かでゆっくりできる場所知らない?」
「いきなり何だ」
「いいから教えてよ。ヌサカーンなら色々知ってるだろ?」
「相変わらずわけのわからん奴だな。……まあ、いい。ヨークランドなどどうだ?」
「ヨークランド?」
「ああ。確かクーロンから行けたはずだが……。いかんせん、私もシップなんて人間の乗り物にはほとんど乗らんのでね、よくはわからんが、以前行った記憶では、静かで、ゆったりしていて非常に退屈な場所だった」
「あったかな、そんな場所……」
 頭に思い浮かべてはみるが思い出せない。それほど印象にも残らないほどの場所なのだろう。それならなおさら都合はいい。
「ついでにもう一つお願いしていい?」
「シップに乗る金がないなどと言い出すんではないだろうな?」
「ピンポーン★ さすがはヌサカーンだね」
 手を叩いて笑うゾズマを一瞥すると、ヌサカーンは白衣のポケットからいくらかの紙幣を取り出して、手術台の上へと放り出した。
「これで十分足りるだろう」
「そう? ありがと♪」
 それを握り締めるとさっさと手術台から飛び降りる。情報を手に入れた以上、こんなところに長居は無用、とばかりに戸口へと向かって走り出し、ドアノブへと手をかけたところでふと、その動きが止まった。
「最後に一つだけ聞いていい?」
「お前の『一つだけ』はいくつ――」
「フィオロは、どうやって死んでいった?」
「フィオロ? 何者だ、それは」
 急に知らない名を出されてヌサカーンは首をかしげた。しかし、それに振り向きもせず、ゾズマは続ける。
「あんたたちが倒した、『時術を研究している妖魔』だよ」
「――あの男か。……壮絶な最期だった、と言うべきかな。魔術で術を封じ込められたせいで、ほとんど手も足も出ぬままだった。まあ、下級妖魔としてはその妖気は凄まじいものだったが――」
「そうだよね。彼は下級妖魔だった。でも、僕にとってはかけがえのないトモダチだった」
 その一言にヌサカーンの表情が険しくなる。もし、この目の前の飄々とした男が牙をむいたらどうなるか。それは同じ上級妖魔であるヌサカーンが誰よりもよくわかっている。
「あのさあ。ヌサカーンって、消滅した妖魔の蘇生方法も知ってるんだろ?」
「……知ってはいるが、試してみたことはない。第一それにはいくつかの条件が――」
「条件なら揃ってるさ。……彼のリージョンにたっぷりとね」
「だが時間がかかる。どれほどかかるのかは私にもわからん」
「それでもいいから、一度やってみてよ。それまで僕はヨークランドとやらでゆっくりバカンスでも楽しんでるから、成功したら教えてよ♪ じゃあ、頑張ってねー」
 先ほどとは打って変わって、満面の笑みで振り返った彼は、次の瞬間、その笑顔をすっと消して。
「失敗したら、命はないと思ってね」
 そう一言残すと扉の向こうへと姿を消した。

NEXT