[君影草] -08-
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 ゾズマがいなくなって数日後、ヌサカーンはムスペルニブルに飛び、ヴァジュイールに頼んで時間妖魔のリージョンへと飛ばしてもらった。
「何をする気だ」そう、尋ねたヴァジュイールにこれからしようとすることを簡単に教えると彼は珍しく目を細めて興味を示した。それは単なる暇潰しだというのもあるだろうが、今まで誰も試みることがなかったことをしようとする者への期待もあったのかもしれない。
「非常に面白い。成功したあかつきにはぜひ、彼をここに連れてくるがよい」
「わかった」
「成功を祈っているぞ」
 いささか似つかわしくない言葉で送り出された時間妖魔のリージョン――誰がそう言ったのか、『時の宮殿』と呼ばれるその場所に降り立ち、彼は配置されたモンスターを避けながら一気に最上階を目指す。途中の砂時計はつい先日訪れたままにさらさらと音を立てて流れ落ちていた。この先を抜ければ最上階へとたどり着く。
「まったくやっかいな階段だ」
 延々と続くかと思われる階段を上りながらそうぼやく。これも恐らくは侵入者を少しでも遠ざけるためのものだろう。そう考えるとあの妖魔がどれほど時術を他人に渡さないように気をつけていたかがわかる。
 話によるとあの男は発生してしばらくの後、ヌサカーンが発生したころにはすでに伝説であった時術に興味を持ち、様々な文献から資料を集め、百年という月日をかけて、それを完全に蘇らせたと言う。しかし、蘇った時術の想像以上の威力を知り、あの男は自らの住むリージョンごと術を封印した。それからちょくちょくと客は訪れるものの(約二名、術とは何の関係もなしに頻繁に足を運んでいた者もいたが)以後数百年に渡り、まさしくこのリージョンの時は止まったままだったのだ。
 確かにあの術は恐ろしいものだった。ブルーのような術に精通した者が使えば、それは想像以上の威力を発揮する。あれほど強大に思われた地獄の君主でさえ、その術中にはまれば、まるで低級モンスターのようになり、決着がついたのはあっという間。その力に、ヌサカーンでさえ冷や汗を流さずにはいられなかった。もし、これが何かよからぬことを考える輩の手に渡れば、全ての種族、全てのリージョンを滅ぼしてしまうかもしれない。そう考えるのが至極当然に思われた。
 ヴァジュイールが言うには、ここ数ヶ月やたら人間が現れ、そのたびに彼は借り出されてでかけていたようだが、数日前にようやく戻ってきたらしい。その直後に現れたのが資質を集めて最強の術士になるために外遊をしていたマジックキングダムの術士ブルーだった。そして彼の手によって世界で唯一時術の資質を持った妖魔は殺され、資質はブルーの手に渡った。
 消滅の間際、時の君が見せたのは対峙した時と同じただ目の前の侵入者を倒す、資質の守護者の表情だった。それにひどく驚いたのを覚えている。彼のまとっていた白い服は流された血で真っ青に染まり、まるで青い衣に着替えたようだった。あれだけの血を流しているのだ。平然としていられるはずがない。しかし、消滅の瞬間まで彼が表情を変えることはなかった。
 やがて彼の姿は完全に消え、残されたのはおびただしい量の青い妖魔の血。恐らく体内の半分以上が流れていたのではあるまいか。それを考えると彼の資質に対する信念がどれほどのものだったのか思い知らされた。
 術は上級、力は下級、そしてその信念は「君」と呼ばれるにふさわしい――。
「素晴らしい男と対峙できたこと、誇りに思うぞ」
 その場を去る間際、ヌサカーンは誰にも聞こえないように、自分なりの最大の賛辞を送った。



「まだこんなに残っていたのか……。ありがたい」
 足元に乾かぬまま残っていた血を踏まぬように瓶へと集めながらヌサカーンはそう呟いた。
 ゾズマに言われたことを実行するためには一滴たりとも無駄にはできない。そもそも成功するかもわからない。もし仮に成功したとしても、それまでにどれほどの試行錯誤を繰り返さなければならないのかもわからない。
「まったく面倒な頼みごとをしてくれたものだ」
 元凶を作ったのには自分にも責任があるが――そう言ってヌサカーンは自嘲の笑みを浮かべた。

 結局、集められたのは持参した瓶いっぱいの血。思っていたよりも大収穫だった。
「さて、妖気だが……。どうするかな」
 彼が自分自身でリージョンを作ってくれたおかげで、このリージョンの中には嫌というほど彼の妖気が充満している。問題はそれをどうやって持ち出すか、だ。
 しかし、妖気を持ち出すなど考えたこともない。その時、ふいに頭に浮かんだ妖魔がいた。
「彼なら何かおもしろいことを思いついてくれるかもしれん」
 ヌサカーンは部屋を飛び出すと、先ほど訪れたばかりの場所へと向かった。そう、彼よりさらに長い時間を生き、暇を持て余している『指輪の君』ヴァジュイールの元へ。

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