[君影草] -07-
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 ヨークランドから離れた後、ゾズマはあちこちを転々とした。それはいつものことで、別段変わったことではなかったが、その目は常に獲物を探してぎらついていた。
 名も知らず、姿さえもよく知らない相手。それはヌサカーンに聞けばわかるようなものだったが、それは今のことが終わった後でもいい。何より、彼には『執行猶予』を与えているんだから。
――もし、『彼』が蘇らなかったら、その時点で聞き出して殺せばいい。
 同じ上級妖魔である彼を消滅させるには少し骨が折れるかもしれない。それでも負ける気がしないのは、彼が生来持っている勝気な性格と、元黒騎士だという自信、そして妖魔としての誇りだった。恩には恩で、仇には仇で。それは彼が生まれてきてから揺るいだことのない信念だった。
 そしてその間でも手放さなかったのは、彼の誇りの象徴である剣と、あのヨークランドの少女からもらったスズランだった。
 試しにかけてみたスターライトヒールのおかげか、ごみ同然と化していたあの花は手折られてから数日経った今でも生き生きとその細い茎に小さな白い花を咲かせている。
「酔狂な、とか言われちゃうんだろうなあ」
 岩の間に腰かけ、その花をくるくると回す。そのたびに花は揺れ、かすかな香りが広がる。
「幸せが訪れる花、ねえ。人間も面白いこと考えるじゃない」
 たまたま寄ったシュライクの本屋で見た本には色んなことが書いてあった。スズランの生態や、花言葉の由来。その小さく可憐な姿とは裏腹に、恐ろしい毒を持つこと。高山という植物の育ちにくい土地で根をはり、花を咲かせるその強い生命力。人間はその力強さにあやかり、幸せを呼ぼうとしたのだろうか。
「さーて。そろそろ僕の幸せも復活したころかな?」
 一声上げると岩から飛び降り、目指す場所へと移動する。そう、目指すはクーロン裏通り――。



 暗い手術室。そこに横たわったままの男と向かい合った医者は特別言葉を交わすでもなく、それぞれの思想にふけっていた。そんな静かな部屋に響くのは待合室から聞こえる柱時計の音。それが心地よく、そして懐かしさを覚え、フィオロ――かつて、時術を習得し、『時の君』と呼ばれた男――は静かに目を閉じていた。
 長いこと慣れ親しんだ音。それは妖魔には無縁な一分一秒を刻む時計の針が進む音。彼が作り出したリージョンでは当たり前の、規則正しい時計の音と、定時になれば響き渡る鳩の鳴き声。それが当たり前になったのはいつの頃からだろうか。もう、遠い昔のような気がしてくる。ただ、ここの時計は鳩の代わりに大きな鐘の音が鳴る、という違いはあるけれど。
「……調子はどうだね?」
 ふいに横の男が話しかけてきた。正直に言うとそんなによいわけではなかったが、答えぬのも悪いと思い、「まあまあだな」とだけ返す。それを聞いたヌサカーンは「そうか」と小さく呟くといつもかけている椅子にどかりと座り込んだ。
「君が蘇ってくれて本当に助かった」
「いや、礼を言わねばならんのはこっちだ。……まさか、再びこの世界で生きることになるとは」
「フッ。五百年以上生きてきて、殺した相手から礼を言われたのは初めてだよ」
「私も殺された相手に礼を言うのは初めてだ。ちょうどよいだろう」
 生真面目なその答えにヌサカーンは低い笑い声を上げた。
「君は、噂通りの生真面目な男だな」
「噂……?」
「もちろん、あの元黒騎士筆頭殿からの噂だがね」
 自分を殺すとまで言い切ったあの男の気迫におされたのは確かだ。彼ならやりかねん。そう思ったからこそ、以前読んだことのあるその本を読み返し、必死にその蘇生法を試みたのだ。長い時間を生きてきたとしてもまだ消滅するのは惜しい。やりたいことだって――彼の場合は奇病に出会う、それだけだが――まだまだある。しかし、今ここであの男とやりあえば自分が消滅するのはほぼ間違いない。それほど強大な力を持った男だということはよく知っている。
 だからこそ、ヌサカーンは一縷の望みにかけた。まだ、誰も試したこともない蘇生法。第一この本に書いてあることですら真実かどうかはわからない。それでもやってみるだけマシだ。そう考えたのである。
 それは奇妙な方法だった。血液と妖気を混ぜ合わせ、そこからその対象者の新たな体を作り出すという、失敗しない方がおかしいほど陳腐なものだった。
 人それぞれにおいが違うように、妖魔もそれぞれで妖気が違う。血液もまた同じ。確かに理論上ではその二つを合わせれば妖魔も生まれるだろう。しかし現実がどうなのかはわからない。ましてやその本にはそれらをどれほど、どのような方法で合わせればいいのかなどが、不親切なほど書かれていなかった。
「……私の勘でやれと言うのか」
 本を読み直した時にそんな絶望感が過ぎったのを覚えている。それでもヌサカーンは実行に移した。それはもちろん、「生きたい」という生物としての本能に突き動かされたからだったが。

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