[君影草] -04-
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 森の中に荒い息遣いが響く。それに合わせるように草を踏む足音。恐怖で逃げ出した少女は細い道を村へと向かってひたすら走っていた。
 しかし、もともとあまり走るような生活はしていないせいか、徐々に息が切れてくる。足がもつれ、倒れそうになり、そこでようやく彼女は走るのを止めた。
「……ああ、怖かった」
 息を整えながら先ほどの出来事を思い出す。あの青白い顔、そしてどこか掴めないような存在。それは彼女が小さい頃話を聞いては怯えていた、幽霊そのものだった。
「やだわ。もうこの山に来れないじゃない……」泣きそうになりながらそう呟く。
 少女にとってこの山は秘密の場所だった。見慣れぬ花が咲き乱れ、静かで落ち着く場所。しかし、幽霊が出るとあっては、恐ろしすぎてとても一人では来られない。それがあまりにも残念で、少女はようやく整い出した呼吸を締めくくるようにため息をついた。

『寂しいなあ』
『すごく寂しい』
 思考が落ち着いてきたのか、先ほど木陰で聞いた言葉を思い出す。寂しい、と彼は言った。その表情は彼女に向けられたようなものではなく、失ったものを心から惜しむものだった。そして、泣きそうな顔をしながら、少しだけ笑ってただ繰り返される「寂しい」という言葉。
――何で寂しいのだろう。そんな考えが頭をよぎる。いや、しかし、とここで首を振る。先ほどの恐怖はまだ消えず、もし、何かあったらどうしようか、と今度はそんな考えがぐるぐると回りだす。
 なぜ寂しいのか、なぜそんな表情をするのか知りたい。でも怖い。二つの感情が頭の中を行きかい、そして――勝ったのは好奇心だった。

 かくして逃げてきた道を戻ってきた彼女の目の前に、先ほどと変わらず彼はいた。長くがっしりとした四肢を草の上に投げ出し、どこか放心したような目で空を見上げている。その眩しさに目を細めるでもなく、行き交う雲を目で追うでもなく、ただその金の瞳に映しているだけ。やはり、人間とはどこかかけ離れている。そんな結論を出して、少女はここへ戻ってきたことを少し後悔した。
 しかし、今更逃げ出すわけにもいかない。
「あの……。さっきはごめんなさい」
 勇気を振り絞って出したその声に彼が起き上がる。そしてきょとんとした顔をすぐに笑顔に変えた。
「やあ、おかえりなさい」
 そう言うと自分のすぐ横を手でぽんぽんと叩く。ここに座れ、という意味なのか。少女は初めて彼に近付いた時よりも幾分慎重に歩を進めると、ようやく彼の横に腰を下ろした。
「幽霊の横に座っても大丈夫なの?」
 いきなりそんなことを聞いてきた男に少女は驚いて振り向く。しかし、すぐにそれは冗談だと気付く。彼の顔はまるで自分の反応を楽しんでいるのかのようだったから。
「君って見てて本当に飽きないね♪」
 退屈だったからちょうどよかったよ、と付け足して彼は屈託のない声で笑った。それにつられて少女も思わず笑みをこぼす。
「さっきは急に逃げちゃってごめんなさい」
「いいよ、いいよ。でも死んだことにされたのはちょっと悲しかったなあ」
「うっ……。それは本当にごめんなさい」
「いいってば。それより何で戻ってきたの?」
「それは――」
「もしかして僕の魅力にやられちゃった?」
 おどけて手を広げた彼に一瞬唖然とした後、少女ははじかれたように笑い出した。
「本当に面白い人!」
「人じゃないよ、妖魔だよ」
 さらりと訂正を入れた彼に彼女は笑いを止めると不思議そうな顔をした。「あの、妖魔って何?」
「え?」
「あの、ごめんなさい。私、ここから出たことないから周りのリージョンのことよく知らなくて……」
「それってモンスターか何かなの?」そう真面目な顔で聞いてきた彼女に、今度はゾズマが腹を抱えて笑い転げることになった。
「もう! そんなに笑わないでちょうだい……」
「ああ、ごめんね。でも君の言ったことが本当におかしくて!」
「ねえ、それより妖魔って何?」
 瞳の中に好奇心を溢れさせ、またそう尋ねてきた彼女にゾズマは首をかしげる。
「うーん、どう言ったらいいのかなあ。きちんと説明するのは面倒だけど、言ってみれば人間とは違う種族、ってとこだね」
「人間と違うの? どう違うの?」
「それが難しいとこなんだよね。違うのは、人間に比べて寿命が長いとか」
「他には?」
「他には……それは外の世界に出て自分の目で確かめてみるのが一番いいよ。まったく違うんだっていうのがよくわかるからさ。それより今度は僕の番。どうしてここに戻ってきたの?」
「――それはあなたが寂しいって言ってたから……」
「へえ、それで戻ってきたの。やっぱり僕の魅力にやられちゃった?」
「もう! そんなことないわ! ただ、ちょっと気になっただけよ」
 そう言ってぷいっと横を向いた彼女の隣りにいた男の顔に一瞬暗い影が走る。しかし、それはすぐに消え、普段の表情へと戻っていった。

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