[君影草] -02-
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「本当にのんびりしてるとこだね♪」
 空気を吸い込んでゾズマは一人笑った。
「それに人間の匂いもそんなにしないし、これは確かに静かで、のんびりできて、退屈そうな場所だなあ」
 あの妖魔医師の言ったことに深く頷く。人もまばらで、緑が多くて――人間の言葉で言ってしまえば「田舎」なのだが、それを妙に心地よく感じる自分に驚きながらも彼はもう一度深呼吸をする。
 なんせ、リージョンシップの中は空気がよどんでいるのだ。いくら乗っている人間が少ないとはいえ、妖魔の中で育ち、その匂いが当たり前になっていたゾズマからすれば、長い放浪の間に人間の匂いに慣れているとしても、そんなに居心地のいい場所ではない。
 それに比べて、このヨークランドのなんと心地よいことか!
「昔はこんな場所、大嫌いだったはずなのになあ。うーん、僕も年を取ったのかな?」
 おちゃらけてそんなことを言ってみるも答える者はなし。彼はもう一度背伸びをして、空気を大きく吸い込むと、なるべく人間の匂いのしない場所を目指して歩き出した。

 人間の匂いを避けて歩いてきた結果、ゾズマがたどり着いたのは深い山だった。あたりにはうっそうとした森が広がり、地面には足の踏み場もないほど群生した雑草が緑のじゅうたんを作っている。人間の手が入っていない、本当の自然。無論、辺りはしんとしていて、たまに鳥の鳴き声が聞こえる程度。それ以外の音はと言えば、そよぐ風が起こす、木々の葉が重なり合い擦れる音だけ。
 そんな中、草の上に寝転がり、どこまでも広がるような青い空を見上げる。白い雲がふわふわと浮かび、東から西へと流れていく。よくでかけるクーロンやマンハッタンとはまったく違う時の流れ。
「人間のリージョンにも、こんなとこがあるんだね」
 この自然の中にいると、思わず声も間延びしてしまうような。始めのうちはそれも楽しかった。しかし、時間が経つにつれ、だんだんと飽きていて、ついにゾズマは空から視線を外すと横へと視線を向ける。
「君がいないと退屈だよ……」
 半ば無理矢理つき合わせていた「トモダチ」を思い出してそう呟く。
 彼と知り合って数百年。長くて十年、短い時は数週間という人間にとっても短い間隔で会いに行った。そのたびに彼は不快そうな顔をし、たまに愚痴をこぼしながらも何だかんだと言ってはゾズマのとりとめのないおしゃべりに付き合ってくれた。ほんの稀だが、共に外のリージョンにでかけることもあった。もっとも、元からあちこちをぶらついているゾズマと違って、彼は自分のリージョンのことを常に気にかけ、一秒でも早く帰ろうとするのではあったけれど。

 最後に会ったのはいつだっけ、と考えてそれが数日前のことだと気付く。その時に彼と交わした会話がまさか最後になるとは。
 燃え盛る教会から脱出し、とりあえずの休息のために訪れた自分の屋敷。かれこれ数年はほったらかしていたせいか、すっかり荒れてしまった自分の部屋でお茶でも飲まないか、と誘ったゾズマに彼はいつもの調子で味気なく答えた。
『私は帰る』
『ええ、もう? ちょっとはゆっくりしていきなよ』
『いつまた誰が訪れるかもわからんだろう。それに、長く起きていたせいか少し疲れた……』
『疲れたの? なら送っていってあげようか?』
『いらん。お前が来るとあと数ヶ月は眠れんからな』
 それだけ告げると彼は姿を消した。後を追いかけてやろうかとも思ったがさすがに止めた。普段体を休めてばかりいる彼からすれば、この数ヶ月は色んな人間に叩き起こされ、あちこちを連れ回されては高度な術の使用を求められる、今までの生涯の中で一番忙しい時ではなかったのだろうか。
 泊まった宿屋でほとんど趣味とも言えるトレーニングもせず熟睡していた彼の姿を見れば、疲れがたまっていることなど誰の目からしても明らかだったのだ。
 数週間も休んだら元気になるだろう。そう考えてゾズマはあえて、彼の後を追いかけなかった。
 しばらくしたらまた遊びに行こう。今度はそうだな、ディスペアに行って囚人をからかってみるのもおもしろいかもしれない。それでまたちょっと休ませたら今度は――そんなことばかり考えていた。

 その数日後、彼が短いその生涯を終えることになるなどとは、これっぽちも思わずに。

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