[幸せ発クーロン行]
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 ため息。それは今のエミリアには一番そぐわないものであるはずだった。紆余曲折はあったものの愛する人と結婚し、こうして家庭を築き始めて早半年。気付けば半年経っていたというほど短い時間だ。毎日が新鮮で楽しくて、新しい一日を迎える幸せは本当に久しぶりだと言えるかもしれない。
 それでも彼女はため息をついていた。どうしても会いたい人がいる、それが理由だった。
 リビングに飾られたシンプルな写真立ての中には、式を挙げた時に撮ったものが納められている。当初から大げさにはせず、小さな教会で二人きり、こじんまりとしたものをと予定していたので招待客などは決めていなかったが、この写真に写る三人だけはどうしても外せなかった。この三人がいなければ式を挙げることも、いや、今こうしてエミリアが穏やかな日々を暮らすことさえ叶わなかった。それどころか夫のレンさえ生きていられたかどうかわからない。
 本来ならば、すんなりと手に入れられた、目の前にあったはずの幸せ。それをある日突然失い、半ば自暴自棄になっていたエミリアを救ってくれたのは彼らだった。そこには彼らの思惑もあったと言うが、今となればそれも全て感謝すべきこと。エミリア一人の力では目指すジョーカーまでなど、とてもではないが辿り着けなかったものを、時にそれぞれの、そして時に同じ目標を持ち協力していったことで、結果的にエミリアは無事レンの元へと辿り着くことができたのだ。
 彼らの力なくして今の生活はありえない。一度運命に引き裂かれてしまった絆を再び繋いでくれた、本当に大事な人たちなのだ。
 それなのに結婚式以降、エミリアは彼らに会えずにいた。会いに行けないほどの遠い距離でもない。連絡だってたまに取っている。ただ、会うとなるとどうしても踏み出せなかった。夫の職業と、彼らの属している組織がぐっとエミリアの足首を掴んだままだったのだ。
 裏組織の人間と妻が会っていると知れれば、きっとIRPOでの評判もよくはないだろう。それはさほど考えなくともわかることだった。現に別れる時に彼らも同じことを口にした。自分たちはあくまで裏組織の人間、表立って交友できる身ではないと。
 それは裏を返せば自分たちとの関わりは断った方が良いということだった。
「いつだってあたしはいるからさ、クーロンに来たら寄ってってよ! ……その、エミリアが困らなければ」
 リーダーに睨まれて遠慮がちに付け足された言葉を、今もエミリアは気にしていた。何より一番組織との断絶を口にしていたのはリーダーであるルーファスだ。幸せな空気に水を差さないようにと最低限の配慮はあったが、彼の意図が汲み取れないほどの付き合いでもない。最初は式に参加することさえ渋っていたのだ。それを強引に誘ったのは他ならぬエミリア本人だった。――だからこそ、これ以上の我が侭はできない。そう思っていた。
 だが思えば思うほど懐かしくなってくる。会いたくてたまらなくなってくる。そうして今日もエミリアは、写真を片手にぼんやりと過ごしたのだった。
 いったいあとどれほど経てば心置きなく会うことができるのだろう。いや、時に死と隣り合わせで生きている彼らのこと、何のしがらみもなくなったその時に会えるとは限らない。
 そればかりで頭が埋まり、さすがに夕食は準備したものの、レンが帰宅したことにも気付かず、エミリアはソファに身を沈めてただただ写真を眺めていた。望郷ではないが、限りなく似た想い。それも少しずつ薄れていくのだろうか。
「エミリア」
 肩を叩かれたのは、そんなことを思っていたちょうどその時だった。
「帰って、きてたの」
「もう十分ほど前にね」
 時間を聞かされて、エミリアは小さく謝罪の言葉を告げた。気付かなかったのが申し訳ないという思いとそれから――何だか悪いことを考えていたような気になったこともあり、もう一度謝罪を繰り返してから腰を上げる。
「今日はキャベツとシーフードのパスタを作ってみたの」
 まるで何もないかのように口に合うかしらと言えば、レンも同調して返事を返してくれる。だが、振り返ったエミリアが見たのは、先ほどまでエミリアが持っていた写真立てを手にじっと何かを考え込んでいる姿だった。
「どうしたの?」
「ううん……そういえば、今日のパスタ、確かクーロンのイタリアンレストランで覚えたって言ってたね」
 振られた話題にエミリアはぎょっとした。確かに彼の言っていることは間違ってないが、今この時にその話題を出されるとは思わなかっただけに、みるみる顔が強ばっていくのがわかる。
「そ、そういえば、そんなことも言ったかしら」
「ああ。何たって料理はからっきし駄目だった君が、急にできるようになってるんだから。驚いたよ」
 あっけらかんと言い放つレンの真意がわからない。写真を見て何かを察したのか、それともただ単に今日のメニューを聞いての言葉なのか。
 それはレンの次の言葉を聞けば明らかだった。
「ルーファスさん、だったっけ。それからライザさんとアニーさん。元気にしてる?」
 何を言っているのだとエミリアの頭の中で声がした。まさか三人に何かあったのか、IRPOに追われているのか。そんな予想が瞬時に駆け巡り、それでも努めて冷静にエミリアは口を開いた。
「わ、わからないわ。結婚してから会ってないから」
「そうなんだ。モデル仲間とは遊びに行ったって聞くから、てっきり会ってるんだとばかり」
 飄々とも言えるレンの口調に、ますます不安が大きくなっていく。ともすれば体中を巡ってしまいそうな感情をそれでも必死に押し殺し、一度深呼吸をする。そうでもしないとさすがに落ち着いていられない。そして、頭の中で何度も言葉を繰り返し、
「先に誓うわ。何を聞いても絶対に口外しない。だから教えて。――ルーファスたちに何かあったの」
 ついにはソファまで戻ってそう口にしたエミリアの真剣な表情に対し、レンが見せたのは鳩が豆鉄砲を食らったような顔だった。
「ルーファスさんたちに何かあったのかい?」
 返された質問に、今度はエミリアが呆ける番だった。
「何か、あったって……何が?」
「えっ」
「何も聞いてないわ。だから何かあったんじゃないかって。だって普段何も言わないのに、急にルーファスたちは元気かって」
「僕はただ、君が最近よく写真を見てたから、会ってないんじゃないかなと想像はしたよ。結婚してからずっととは思わなかったけどね。ここ数日あまり元気もないみたいだったから、もしかして家のことでストレスが――」
 そこまで言ってレンは急に口を閉じた。そしてふと手で覆う。彼が何か真剣に考える時に見せる癖だ。
「もしかしてエミリア、僕に遠慮してない?」
 そして導きだされた答えにエミリアが息を呑む。もちろん、それをレンが見逃すはずがない。
「やっぱり。確かにグラディウスはやり方によっては法を犯す時もある。その時は僕も捜査官として仕事をしなければいけない。でも、何もしていないのに、グラディウスだからという理由だけで会うなだなんて、ナンセンスだと思わない?」
「でもIRPOに知られたら、きっとあなたの肩身が狭くなるわ」
「その時はその時でまた考えればいい。でも今は違う。それに『友達』に会いたいんだろう?」
 その一言でついにエミリアは首を縦に振った。全て見透かされていたことに気付き頬を染めるも、彼が気付くほど自分の態度があからさまだったのかと反省もした。彼が頭の切れる優秀な捜査官だということもある。そして何より――変化に気付いてくれるほど自身をしっかりと見てくれているのだと思うと、急に誰かに惚気たいほどの幸せが湧いてきた。
「そうよ、『友達』に会いたいの」
 まるで重荷を下ろしたようにほっとため息をつくと、ようやくエミリアにも笑顔が戻ってくる。
「ごめんなさい。私、一瞬でもあなたを疑ったわ。もしかしてルーファスたちのことを追っていて、何か情報を探してるんじゃないかって。でも違ったのね。本当にごめんなさい」
「いいよ、気にしないで。それより明日出かけるんだろう」
「明日――ええ、そうね。出かけるわ。遅くなるかもしれないから、悪いけど夜は食べて帰ってきて」
「ちょうどよかった。最近付き合いが悪いって先輩がこぼしてたとこだったんだ」
 新婚ほやほやの後輩の姿は眩しくはあれ、独り身で過ごす男からすれば面白くない部分もあるのだろう。それだからいつまで経っても彼女ができないのよ、と心の中で舌を出すと、とたんに頭に浮かんだ男は顔をしかめて、うるさい、余計なお世話だと返してくる。それがあまりにも簡単に想像できてエミリアは思わず噴出した。
「でもあまり飲みすぎちゃ嫌よ。レンは本当にあの人に弱いんだから。もっと飲めって言われてもちゃんと断るのよ」
「わかってるよ。それに僕には君がいるからね。先輩、君には頭が上がらないっていつも言ってるから」
「そうよ。何の罪もないか弱い私をディスペアにぶち込んだんだから当然よ。それに……私はレンに弱いからちょうどいいわね」
 最後の言葉にレンが疑問を投げかけても、エミリアは笑顔一つでかわし、再びキッチンへと向かう。冷めたソースを温め直して、ようやく夕食の始まりだ。二人で他愛もない話をしながらこうして腹を満たす。目の前で笑っている夫は誰よりもエミリアのことを想い、理解し、考えてくれる。それがどんなに幸せなことか。今もほら――。
「明日、何着て行こうかしら。確か、クーロンではホットパンツが流行ってるって」
「それは駄目」
「どうしてよ」
「……どうしても」
 譲ってくれない部分もあるにはあるのだが。二人の生活はこんなにも笑顔で満ち溢れている。

|| THE END ||
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