[逢魔ヶ刻〜case of EMILIA〜]

「裏通りに腕のいい医者がいる」
 その日、射撃訓練の際に怪我をしたエミリアに、ルーファスが言った一言だ。
「でも裏通りって行ったことないわ。何だか気味悪いって言うし」
「なに、階段を下りてすぐだ。派手な看板がついているから迷うこともあるまい」
 それよりも、怪我で動けない方が面倒だ、と簡単な地図をもらってエミリアが放り出されたのはほんの十数分前。またこんな時に限ってアニーもライザも所用で出かけている。仕方なく、痛む手首を押さえながら一人裏通りに足を踏み入れたはいいが、表通りの華やかさとは打って変わって、じっとりとした空気が支配するこの場所に、三歩歩いた時点でやはり引き返そうか、と思ったほどだ。
 しかも、さらに悪いことに、空からはぽつぽつと小さなしずくが落ちてきた。
「もうっ。こんな時に限って」
 エミリアは一瞬泣きそうな顔をして、慌てて階段を下りていく。
 そもそも、訓練で慣れない大きめの銃を使用したのがいけなかった。発砲した際の反動でバランスを崩し、気付いた時には固い木の床が迫っていて、とっさに手をつこうと思ったもののすでに遅し。真っ赤に腫れあがった右手首はルーファス曰く、折れているだろうとのことだ。
 しかし、エミリアもむやみやたらに大きい銃を選んだわけではない。実際、彼女は焦っていた。恋人を殺した犯人は捕まらず、自分は身の安全は確保できているものの、探そうと決めた犯人の手がかりもほとんど持っていないまま、ただ毎日射撃訓練の繰り返し。それがもう一月半にもなる。そうこうしている間にも犯人はどこかへ、そして恋人のレンが殺された理由は永久に闇の中へと沈んでしまうかもしれないのに。
「……あったわ」
 なるほど、ルーファスの言ったことは正しかった。暗い裏通りの中でひときわ目を惹くイルミネーションが、目的地はここだと呼びかけていた。
「あのう……」
 建物自体はかなり古いものらしく、開いたドアがギリギリと嫌な音を立てる中、エミリアは薄暗い待合室へ。入って右手に受付があり、話を、と思っても誰もいない。いや、もう数年は使われていないのでは、と思うほどの状態だ。それがまたよりいっそう不気味さを演出している。
 早く出たい。早く治療だけしてもらって、さっさとこんなところからは帰りたい。そればかりがエミリアの頭の中を占め、ビクビクしながらも、ふと部屋を見渡すと先客が一人、こちらに背を向けて座っていた。
「あの、すみません。こちらの先生は……」
 必死に笑顔を作って話しかけてみれば、目に映る大きな二つの暗い穴。鼻とおぼしき場所にも小さな穴が二つあり、その下には美しい歯並びが、何にも覆われることなくむき出しになっている。
「…………!」
 悲鳴は喉の奥で消えてしまった。とにかく、ここから逃げ出さねば。瞬時にそう判断して飛びのいても、もつれた足は言うことを聞かず、その側にあった埃まみれのソファへと一直線に向かう。床がギシッと嫌な音で鳴いたのを聞いたか、次の瞬間、エミリアの体はくたびれたソファの上へ投げ出された。それでもまだ足掻く。必死で体勢を立て直し、目の前へと見えたドアに向かって――。
「君がエミリアくんかね」
 耳元で聞こえた囁きにふと振り返って、再び言葉を失う。青白い顔のその上部、いささか古臭いデザインの眼鏡の奥からこちらを見ている瞳はどこか昏く、うっすら笑みを浮かべた唇にも血の気はほとんどない。
「なに、ルーファスから連絡があってね。それでは怪我を診せてもらおうか」
 いったい何者なのか。なぜルーファスの名を知っているのか。聞きたいことは山ほどあれど、その一つとして声になるものはない。ただ、恐怖におののくエミリアを他所に、男は彼女の腫れた手首を持ち上げると「ふむ」と一言。
「骨が数ヶ所折れているな」
 一目患部を見ればすぐにわかる名医か、それとも適当に診断を並べただけの藪医者か。男は有難くも前者で、やおらはおっていた白衣を脱ぐと、患部へとそっとかける。そして数秒後。まるで手品師が技を披露するようにさっと白衣を取り除けば、あれほど真っ赤に腫れあがっていたエミリアの手首は、元の細く真っ白な状態に。
「動かしてみたまえ」
 言われて、呆然としたままエミリアは手首を振ってみた。二度、三度。同じことを繰り返しても先ほどの痛みは微塵も感じられない。
「ウソ……」
 あれだけ腫れていたのに、それが一瞬で治るなんて。
「あ、ありがとうございます」
「なに、別に礼を言われるものではない」
「だけど、一瞬で怪我を治してしまったでしょう。……あの、あなたは誰なの?」
「ルーファスからは聞いてないのかね」
「ええ、何も。ただ裏通りに腕のいい医者がいるって」
「なるほど。ならばそれでいい」
 医者は、目を細めてそう言うと、外へと続くドアを開いた。出て行け、ということらしい。もちろん、エミリアは一瞬ためらったが、有無を言わせないその態度に従い、黙って外へと歩き出す。
「お大事に」
 そう声をかけられて振り返れば、閉まろうとするドアの隙間にあの白衣が見えた。そこでようやく、はっと我に返る。
「あの、お金……」
「ちょっと姉ちゃん、どいてくれねえか?」
 エミリアがそう口にすると同時に聞こえたのは若い男の声だった。視線を元に戻せば目の前には顔中血まみれの男を肩に担いだ二人の若者。身なりからして、この裏通りの住人だと言うのはわかる。
「わりィな。こいつかなりヤバくってよ。――おい先生、急患だ!」
 半ば怒鳴って、慣れた手つきで建物の中へと入っていく。とたんに中はがやがやと騒がしくなり、ちょっとした好奇心も手伝ってエミリアはドアへとそっと歩み寄る。
「また何かやらかしたのかね」
「それがよう、こいつまたあの馬鹿とやりあってよ。負けるってわかってんのにさァ」
「よほど学習能力がないと見えるな。さあ、そこに横たえて――ああ、頭の下にはこれを置きたまえ」
「すまねえな、先生。いつも厄介になっちまって」
「お前たちの血の気の多さはすでにわかってる。こんなことでは気にもならんよ」
 先ほどまでのおどろおどろしさが嘘だったかのように、中からは笑い声や何やらが響いてくる。いや、それでもこの建物の中は暗いままなのだ。そう考えても、やはり納得はいかない。
「……でもまあ。悪い人じゃなさそうね」
 それにけっこうかっこよかったし、と付け足してエミリアは表通りへと駆け出す。降り続く小雨が太陽の光に反射してキラキラと眩しい。

|| THE END ||
Total:2,627文字  あとがき