[The Mystery of "Madam Lament"] -05-
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 ここで今検証したことをまとめてみる。被害者の傷は明らかに第三者の行動によってつけられたものだ。そこで、被害者が何者かに突き落とされたとする。だがここでも一つ疑問が浮かぶ。
「被害者はなぜ、いとも簡単に突き落とされたかってことだ」
 ヒューズの言葉に私は頷いた。例えば、顔見知りの犯行だとすれば、被害者は油断していたと考えられる。だが、それ以外の者が目の前に現れたら、警戒心を強め、よりいっそう強く手すりを握り締めるのではないだろうか。突き落とすにも、抵抗されたら容易なことではないと思うのだが。
「それがポイントなんだよな。被害者の体にはもみ合った後がない。ってことはつまり、何の抵抗もなく突き落とされたってことだろ。しかも驚いたことに事件当日、この家には被害者と夫人しかいなかった」
 確か調書には、二人の結婚記念日だと記されていた。そのため、被害者は前もってこの家の使用人たちに暇を取らせていたという。
「家の中には二人っきり。そして被害者は殺された。ならば疑いの目がかかるのは当然――」
 もう一人、グザヴィエ夫人だとなる。だが、彼女は事件が起こった時間、友人の急な呼び出しを受け出向いていて、この家にはいなかった。
「ここで、俺が昨日推理したことさ。夫の死後、莫大な遺産を手に入れたグザヴィエ夫人は、この館に飾られていた絵をある人物に譲った。それが誰だと思う?」
 誰だと唐突に言われても、まったく想像がつかないが――まさか。
「そう。結婚記念日にグザヴィエ夫人を呼び出した友人ってわけさ」
 つまり、作戦の成功報酬としてグザヴィエ夫人は絵画を友人に譲ったと言いたいのか。それならば、彼女のアリバイはないも同然だ。
「俺がさっき不動産屋に絵のことを尋ねたのは、その絵の行く末を確認したかったからなんだ。調べてみれば、その友人は絵画商をやっている。小さな小さな店だが、揃えている商品はどれも有名画家の本物ばかりだ。もちろん、この家に飾られていたものもそこに流れている」
 そこで、とヒューズは私に手を合わせた。問えば、手助けをして欲しいという。
「昨日、その店に行ってみたんだが、絵を入手したことは教えてくれても、誰から入手したのかは購入者にしか教えられないと言うんだ。残念なことにグザヴィエ夫人から譲られたと考えられる絵画三点はすでに店にはない。購入者に聞きたくても店の主人は頑なに口を閉ざしたまんまだ。そこで、俺が主人を引きつけている間に、お前にこっそりリストを見て欲しいんだ」
 無茶を言うな。店の中からリストを探し出し、確認するまでにどれほどかかると思っている。
「それに関しては大丈夫。リストは店のカウンターにある引き出しの上から二段目に入ってる。見たところ鍵はかかってない。それから譲られたとされる絵画だが」
 そう言って彼は手帳を一枚ちぎってこちらへ寄越した。だが、これをいったいどこで見つけたというのか。
「そりゃお前、屋敷のことを知ってる人間だよ。もっと詳しく言えば、ある意味、その家のことを主人よりもよく知ってる執事って奴にな」
 まさか昨日一日でそこまで調べ上げたとは。さすがだと唸ると同時に、これをきっかけに捜査が進展するかもしれないと思うと、自然とやる気もわいてくる。
「よーし、お前もいい顔してきたな。じゃあ、作戦決行といこうぜ!」
 その言葉を合図に屋敷を飛び出した私たちは、外で待っていた不動産業者に一応の例を述べ、車でシュライクの中心地へと向かった。屋敷からはざっと四十分、目的地にはすんなりと到着した。メインストリートに面した一軒の小さな店は、ショーウィンドウにも色とりどりの絵画がそれに似合った額縁に入れて飾られ、外観も非常に美しかったが、周りの喧騒に比べて中はまるで別世界のように静まり返っていて、ヒューズが扉を開けたとたん、そう冷えているわけでもないだろうに、どこかひんやりとした空気が外に漏れてきた。
 店の中を見つめていると、ヒューズがカウンターに向かって話しかけているのが見えた。その奥で応対している人物がグザヴィエ夫人の友人か。四十歳になろうかといった感じの品の良い身なりの婦人だ。ヒューズのようなあまり見かけない客に少々困惑しているようにも見える。
 やがて、ヒューズと一緒に主人はこちらと近づき、ショーウィンドウの前で足を止めた。これが作戦開始の合図だ。ヒューズがショーウィンドウの絵画をえさに主人を外へとへと連れ出している間に、私がカウンターの中を探る。
 さっそく、ドアを開くと瞬間に店の中へと転移した。こういう至近距離での転移は楽だ。元より目的地が見えている。
 注意をして後ろを振り返れば、ちょうど主人が店の外へと出たところだった。それを確認して、慌てて腕章をポケットに突っ込みカウンターへと潜り込むと、ヒューズに教えられたとおり、左側にあった二段目の引き出しに手をかける。引き出しを開けてすぐ、目的のものはわかった。黒い革表紙のファイルを取り出すと、作家名でまとめられたリストに、仕入れ先と日付と値段、そして購入先、その日付と値段が順番に書かれていた。ヒューズから手渡されたメモを元に、作品名を探すと、それはすぐに見つかった。ヒューズの読みは間違っておらず、そこにはしっかりとグザヴィエ夫人の当時の名前が書かれている。それに心の中で歓声を上げながらも、ページを全てチェックすると、取り出した携帯電話でそこの写真を撮った。実際、この機械はあまり使いこなせてないのだが、IRPOからこのカメラのついたものが支給された時に、特捜課の人間メンツに嫌というほど講習を受けたので、何とかこの辺までは利用できる。
 写真を撮り終え、保存すると同時にすぐにリストを閉じて引き出しへと戻し、私は転移先を頭に思い浮かべた。目指すのは、店のすぐ先にある路地だ。そこから何食わぬ顔で出てきて、ヒューズと合流するという算段だ。
 手馴れた感覚ですぐに転移に成功した私だったが、そこでふと足元の違和感に気付いた。先ほど調べた時にはアスファルトだったのだが、今は妙に柔らかな感覚に、まず足元を見て、そのまま顔を振り返った先にいたものを見て、相手以上に私が驚いた。男は私の足元の布をしっかりと握り締め、口をぱくぱくさせていたが、私も思わず口があんぐりと開いてふさがらない。まさか、こんなところに人間がいるなんて誰が思うか。ついさっきまではいなかったはずなのに。
 だがこうしてはいられない。今もきっとヒューズは必死にあれやこれやと主人を引き止めているはずだ。慌てて、足元の布切れから足を離すと男に詫びを入れて私は路地から飛び出した。見れば、ヒューズの顔にも焦りが浮かんでいる。一刻も早く解放してやらなければ。
「おい、まだか」
 一般人の振りをして声をかけると、ヒューズと主人がこちらを見た。
「あら。お連れ様でらっしゃいますか?」
「ああ、ちょっと待っててくれって言ってたんですけど」
 そう苦笑いをしてヒューズは主人に頭を下げた。
「どうもありがとう。おかげでいろいろ勉強になりました」
「いいえ、こちらこそ。またお越しくださいね」
 そう言うと主人は人当たりのいい笑顔で私にも頭を下げて、店の中へと引っ込んだ。とたんにヒューズが真顔に戻る。
「おい、どうだった?」
 何よりもまず結果を、と言いたげなヒューズの目の前に先ほど撮ったばかりの写真を見せてやる。グザヴィエ夫人からこの絵画商へ、そして購入先へと絵画が流れていったという決定的な証拠を何度も確認し、ようやく彼がニヤリと口の端を上げて笑ったのは一分ちょっと経った頃だろうか。
「さすがだな。人間だとこうまでうまくはいかねえ。よーし、今日の昼飯は俺のおごりだ!」
 おごりと言ってもそこら辺のファーストフードで蜂蜜をもらってくるだけだろうと思っても、やはり自分のした仕事を評価されるのは嬉しい。こちらもどことなく張り詰めた気分が溶けていくような感じがする。
「じゃあ、行こうぜ」
 そうヒューズに促されて私たちは車へと歩き出す……はずだったのだが。
「ちょっと! ちょっと待ってよ!」
 な、なんだ? いきなり強い力で肩を掴まれ振り返った先にいたのは、紛れもなくグザヴィエ夫人の尾行をしていたはずのゾズマだった。どうして彼がここに?という疑問を紡ぎだすよりも前に彼がそのよく通る声でまくし立てだす。
「まったく、どこ探してもいないと思ってあちこち飛び回ってたんだよ。せめてさ、移動する時はわかるくらいの妖気くらい発してもらわなきゃ」
「それより何だよ。お前、いきなり何なの?」
 一瞬話が飲み込めなかったのか、ヒューズが少しばかり不機嫌そうな声でそう返すと、とたんにゾズマははっとなり、ここへ来た用件を告げたのだが――。
「おい、サイレンス。今すぐヨークランドに戻るぞ。ゾズマ、お前も来てくれ」
「言われなくてもわかってるよ」
 話がまとまったところでヒューズの腕を掴むと、頭の中にヨークランドの風景を思い浮かべる。一瞬の後、目を開いたそこにはもちろん、グザヴィエ夫人の家があった。ただ、私たちがここを離れた時とは違う、騒然とした雰囲気に包まれてはいたが。
「おい、みんな!」
 少し離れたところから走りよってきたのは、アラン・グザヴィエの様子を見張っていたリュートだ。普段ののんきな顔とは違い、少々顔を青ざめさせながらも、人ごみを掻き分けて進むその後に私たちも続いた。
「誰か通報はしたのか?」
「さっき俺がやってきたよ。で、ゾズマがヒューズたちを探してくるって」
「なら、署のやつらがやってくるのも時間の問題だな」
 そんな会話を聞きながら、グザヴィエ夫人宅のドアを開ける。とたんに、むっと鼻をつく生臭い血の香りがした。
「あ、あなたたちは……」
「IRPOのもんです」
 夫の遺体の傍ら、真っ青な顔をしたままそう問いかけてきたのは、もちろんグザヴィエ夫人だ。とたんに、なんて白々しいという思いが頭をよぎった。もちろん、ヒューズもその思いは同じだったらしい。
「もう逃げられないぜ、イレーヌ・グザヴィエさん」
 ヒューズが腰の手錠に手をかけ、引き抜いた時点でグザヴィエ夫人にも何が起こるのか察しがついたのだろう。とたんに待ってくれ、自分の話を聞いてくれと声を上げたが、もちろんそんな戯言を聞くつもりは毛頭ない。それに、今この場で彼女を弁護する者など一人とていない――。
「ち、違うんだよ、ヒューズ!」
 目の前に躍り出てきたのはリュートだった。何が違うと言うんだ?
「あのさ、この人を逮捕する前に俺とゾズマの話も聞いてくれよ、な?」
「何言ってやがんだ、馬鹿! どう見たってこの女が殺してるんだろうが!」
「だから、俺の話を聞いてくれってよ」
 リュートを引き剥がそうとするヒューズと、それでも食らいつくリュートの押し問答がどれほど続いたか、ついにヒューズが握っていた手錠を下げた。
「仕方がねえな。サイレンス、その女を見張っててくれよ」
 そう言ってヒューズは、リュートとゾズマを引きつれ、いったん外へと出て行った。仕方がなく、私はその場に立ったまま、未だうつむいたままのグザヴィエ夫人を見張る。だが、オフホワイトの服に身を包み、血まみれの夫の手を握り続けるその姿を見ているうちに、ふと何かが頭に引っかかった。何が引っかかっているのか自分でもわからず、彼女の姿を目に映したままじっと考える。何かがおかしい。今、この状況で何かが欠けているような、何かが足りないような気がして、ちらちらとグザヴィエ夫人に視線を寄越しながらも部屋の中を見渡し、ようやく気付いたのは、彼女がふと面を上げた時だった。
 どうしてグザヴィエ夫人は、返り血を浴びていないのだろうか。

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