[Drunk Witness] -03-
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「ああ、もう! 何だ、ピンクの花だってそればかり言いやがって!」
 ヒューズの苛立った声に、廊下を歩いてた警官が思わず振り返った。だがそれもつかの間のことで、彼がいなくなってからは私とヒューズの二人だけだ。
 拘留から三日目、容疑者のジョン・ターキスは未だに口を割ろうとしない。ヒューズが何を聞いてもだんまり、たまに口を開いたかと思えば「腹が減った」、「タバコが欲しい」というこちらに対する欲求と、「俺が見たのはピンクの花だ」ということだけ。
 別にそれが珍しいわけではない。今までもそうやってひたすらごね続ける容疑者なんていくらでも見てきた。それでも三日、四日と経つうちに皆口を割るものだ。いや、口を割るというよりはうっかり口を滑らせる、と言った方が正しいのかもしれない。ヒューズの人を乗せるような会話に思わず口を滑らせ、そこを今度は突っ込まれる。巧妙に仕組んでついた嘘ほど小さなひびから脆く崩れるものだ、というのはまだIRPOに入って間もない頃、ヒューズの取調べを見て学んだことだ。やたらと筋の通った話をするやつほど怪しい、というのもその頃学んだ。だが今回は――。
「どうした?」
 タバコを消しながらそう聞いてきたヒューズに視線を合わせるも、やはり自分の考えを言うには至らない。そもそも今考えていることが正しいのか間違っているのか。自分一人の想像だけで捜査の足を乱してしまうわけにもいかない。
「何だよ。何か考えてたんじゃないのか?」
 その質問に首を振るとヒューズは残念そうにため息をついた。
「ま、こんだけ進展がないんじゃしょーがねえか。よし、取調べに戻るぞ。一刻も早くあいつの口を割らせなきゃな」
 ぐっと背筋を伸ばすと、ヒューズはまた取り調べ室のドアへと手をかける。この三日間、ずっと見てきた光景だ。
「ほら、お前もさっさと――ってどうしたんだよ?」
 ぎょっとしたヒューズの声が頭の上を通過した。そりゃ誰でも驚くだろう。いきなり目の前で頭を下げられたら。しかし、こうするしかないのだ。歩調が乱せないのであれば、私一人で動くしか――。
「お、おい! サイレンス! どこ行くんだよ!」
 慌てふためいたヒューズの呼びかけにも振り返らず私は一目散にその場を離れた。大したことない長さの廊下がやけに長く感じる。響くのは自分の足音と後ろから追いかけてくるヒューズの足音と。どんどん近づいてくる足音を聞きながら角を曲がったところで目的地の風景を頭に浮かべる。ふっと体の浮く感覚に身を任せ、振り向いたその瞬間、角を曲がってきたばかりの唖然とした顔のヒューズに心の中で詫びを入れ、私は一人シップ発着場へと飛んだ。



 オウミのシップ発着場に突然姿を現した私を見て数人が声を上げた。大方、妖魔の転移を見たことのない人間だろう。ざわざわと騒ぎ始めた人ごみをすり抜け、辺りに視線をめぐらせると、目的の人物は前と同じようにゆったりとソファに身を沈めていた。
「おや、あんたは確か……」
 すっと目を細めたハミルトン艦長に訳を話すと彼女は困ったような顔をして小さく笑った。
「残念だけど、私はただの客だからね、あの木をどうこうしていいかなんて権限はないのさ――そうだ!」
 ぱん、と手を叩いて彼女はいきなり立ち上がるとさっさと受付カウンターへと歩いていった。とっさの行動に驚いたが、よく見ると係員と何か話をしているようだ。ぱらぱらと書類をめくりながらどこかへと連絡をつけていた係員がふいに顔を上げ、ハミルトン艦長に何かを手渡した。さらに彼女が何かを書き込み、再び係員へとその紙切れを渡す。どこかで見た光景だと思ったら、一般のシップ渡航手続きと同じ光景だ。どうかしたのだろうか。
「おいで、坊や!」
 ハミルトン艦長がふいにこちらに向かって手招きをした。坊や?――まさか私のことか!? 辺りを見渡しても坊やと呼ばれるような人物はいない。だとすれば、ハミルトン艦長が呼んでいるのは私のことなのだろうか……? いや、でも私はもう二百年も生きてるし、坊やだなんて呼ばれるような年では――。
「何やってんだい! 酔芙蓉が欲しいんだろう?」
 その言葉に思わず反応する。どうやら『坊や』とは私のことだったようだ。慌ててハミルトン艦長の元へ走ると、そのままシップ発着口へと向かい、彼女は歩き出した。
「私の知り合いでね、庭に見事な酔芙蓉を植えている人がいるんだよ。その人ならきっと分けてくれるに違いないさ」
 それはありがたい! 思わず頭を下げた私に対して彼女は「礼などいらない」と言ってあの豪快な笑い声を響かせた。
「困ってるヤツを見過ごすほど冷たくはできてないんでね」
 ああ、ヒューズ。やはりこの女性はお前が思っているほど悪い人間ではないぞ。置き去りにしてしまった相棒に向かってそう呟くと、私は彼女が用意してくれた小型シップへと乗り込んだ。
 このシップはどうやら彼女の私用のものらしい。いつもはビクトリア号に積んでほとんど使わないが、たまに仕事の関係で使うこともあるんだとか。そんな話をしつつ、こちらがシートベルトを締めるのを確認すると、ハミルトン艦長は手元のスイッチを押した。とたんに聞き慣れた小型特有の馬鹿でかいエンジン音と振動が機内に響く。
「安心しとくれ。この三十年、事故を起こしたことなんて一度もないからさ」
 彼女が冗談めかしてそう言う中、シップはゆっくりと動き出した。エンジンの音が先ほどと違う音へと変わり、やがて機体が宙に浮く。みるみる遠ざかっていく地上を見るとビクトリア号の甲板で船員がこちらに向かって手を振るのが見えた。
「ネルソンに行くのは初めてかい?」
 ふいにかけられた問いに頷くと、彼女は「そうか」と一言漏らした。
「いい場所だよ。適度に栄えていて適度に自然があって。何事も適度が一番さ。行き過ぎていいことなんて一つもない」
 彼女の言うことが何を指しているのかはどことなくわかった。トリニティのこと、そして何よりモンドの件もそれに含まれるのだろう。私は直接関わったわけではないが、ヒューズから話は聞いている。もちろん、ハミルトン艦長の名前も知ってはいた。だが、それはあくまで情報として、反トリニティの指導者の一人としてだ。
 トリニティに属しているIRPOではネルソンはまるで反トリニティ主義者という悪の巣窟のように言われているが、それもまた真実であり真実ではない。このハミルトン艦長自身も、『世界の治安を維持する』トリニティ・IRPOの要注意人物としてリストアップされてはいるが、実際にどうこうした、犯罪を犯したという記録はない。ただ反トリニティのリージョン、ネルソンの艦隊のトップというだけで、危険因子だとその名を挙げられている。
 トリニティというのも不思議な組織だ。他の種族が治めるリージョンに関してはほぼ不可侵だというのに、こと人間のリージョンだというだけで従っているから良い、反しているから悪いと決めつける。ネルソンがオウミとだけシップの運航契約を結んでいるのは、トリニティができる前からオウミ・ネルソン間に交流があったからだが、どうやらトリニティ本部はそれでさえもあまり良しとは思っていないようで、未だにトリニティとオウミの間での騒動が新聞の紙面を賑わすこともある。
 こうして混沌の中浮かんでいるリージョンの間には何の境もないのに――そんなことを考えているとふいに辺りの景色が一変した。暗い中、はるか下の方に街の明かりが点在する。どうやらネルソンは今、夜のようだ。
 激しい振動と共にシップは着陸した。シートベルトを外して外へと出ると、かすかながら不思議な香りがする。近くに何かあるようだ。
「あッ! 艦長、どうなされました?」
 発着ロビーにいた係員にハミルトン艦長が歩み寄ると何か二言三言話している。聞こえてくる単語を読み取ると、私のことについて説明しているようだ。その間も彼の視線はちらちらとこちらに投げかけられる。視線の先をたどってみると、どうやら私を見ているのではなく、私のつけているIRPOの腕章へと向けられているのがわかった。よくよく考えてみれば、IRPOがこんなところに来るはずもない。この腕章を見た人間もあまりいい気にはならないだろう。そう思って腕章を外し、ポケットへと押し込んだところで話を終えたハミルトン艦長がこちらへと歩いてきた。
「すまないね。待たせちまって」
 彼女に促されて発着場を出ると、先ほどの香りがぐんと強くなった。いい香りだ。すっと吸い込み吐き出すと、じんわりと鼻腔にその香りが残る。
「海の匂いは好きかい?」
 そう言ってハミルトン艦長もまた深呼吸をした。これが『海』というもののの香りなのか。吸い込むだけでなぜか心が落ち着いてくる、不思議だが温かい香りだ。
「ここいらは港だけどね、ちょっと離れたところに砂浜もあるんだよ。よかったら今度遊びに来な」
 あの馬鹿も連れてね、と笑う彼女の誘いは非常に魅力的だ。海というものは湖よりも大きいという。話に聞いたことはあるが、まだ見たことはない。水平線をどこまで行っても途切れないというのはどんな感じなのだろうか。それを抜けるとどこに行くのだろうか。一度、実際にこの目で確かめてみたい。
 ハミルトン艦長の言っていた知り合いの家は、シップ発着場から車で二十分ほど行ったところにあった。目を見張るほど馬鹿でかい家が立ち並ぶ中の一軒の前で車を止め、呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして茶色のガウンを身にまとった、ハミルトン艦長と同年代の男性が出てきた。何でも、彼女の昔の仕事仲間だという。
 彼に促されて応接間に入り、柔らかいソファへと腰を下ろす。非常に座り心地がいいが、肌触りから言ってかなり高級なものではないだろうか。……欲しいと思ったが、私の給料では手が出せそうにないな。
「仕事の途中なんでね、あまり長居はできないんだけど」
 そう言って私の代わりにいきさつを話してくれた艦長に応えて応接間を後にした男は数分後、少し大きめの鉢植えに入った植木を持って戻ってきた。まさしく、被害者の家にあったのと同じ酔芙蓉の木だ。
「へえ。こんな小さなものもあるのかい」
 ハミルトン艦長が目を見張った。何でも、この鉢植えは観賞用に小さくされたものらしい。
「本来なら庭の木から苗木を取るのがいいんだが、育つのに時間がかかるからねえ」
 土がこぼれぬように、と袋に入れて手渡してくれたその鉢植えを受け取り、そこを後にした。もちろん、厚く礼を述べてからだ。家の主人はおおらかな人で、また欲しかったらいつでも取りに来いと言ってくれた。そうだな。この小さな鉢植えを自室に飾るのも悪くない。この事件が終わったら、改めて礼を届けると同時に一つばかりねだってみようか。
「さて、あんたはどうする?」
 ハミルトン艦長の話によると、オウミまで送れることは送れるが、少しだけネルソンで用事があるから待ってもらうことになる、とのことだった。三十分や一時間くらい待ってもよい、と思ったが、オウミに置き去りにしてきたヒューズのことを思い出し、慌てて首を振った。そうだ、こちらも早く用事を済まさなければ。何より、次に会わなければならない男は、おそらくすぐに会えるだろうが、仮に出かけられているとすれば、どこにいるのかまったく見当もつかない。
 彼の名を出すと、すぐにハミルトン艦長は頷いた。どうやら彼を知っているようだ。それに少し驚いたが、彼がモンドの件で手を貸してくれたと言う話を聞いて納得がいった。いかにもお人よしの彼らしい。――とそこまで言うほど親しい仲でもないのだが。
 尽力してくれたハミルトン艦長に別れを告げ、次の目的地へと転移を始める。ネルソンの藍色が少しずつ薄れ、やがて別の景色が現れる。見えた星空に一瞬、転移に失敗したのかと己を疑ったが、それも一瞬のこと。すぐそばに聞こえたのどかな羊の鳴き声が、私の疑問を吹き飛ばしてくれた。

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