[The Adventure of the Aimed Man] -03-
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 昼でもどこか薄暗い裏通りを少し進むと見慣れた建物が見えてきた。外からでも陰鬱さが伝わってくる上に中に入ったとたん、人を寄せ付けない静けさと不気味さが襲ってくる。
「いつ来ても辛気臭い場所だなあ」
 病院だからな。しかもあのヌサカーンの。
「まったく、もうちょっと電球でも明るくすれば……」
「明るすぎると目が疲れるのでねえ」
 いきなり目の前に現れたヌサカーンが、傍らに置いてあった骸骨を撫で回しながらそう言った。何でも、昔担当したある病人の遺骨らしく、あまりにも美しかったのでここに飾っているのだと言う。
 ヒューズは「妖魔は理解できない」と言っていたが、同じ妖魔の私でも彼の趣味は理解できない。
「二人で来たということはIRPOの仕事かな? それともどちらかが難病に――」
「ひっじょーに残念だが、前者だな。ちょっと担当している事件であんたの名前が出てさ」
「それはワン・ヤオのことかね?」
 さすがはヌサカーン。鋭い。ヒューズも思わず口笛を吹いて感心を表した。
「わかってるなら説明する手間もはぶけるってもんだぜ。昨日のことも含めて、ワン・ヤオのことについて教えて欲しいんだ。捜査に協力するってことでさ」
「まあ、別に構わんが……。今カルテを取ってくる。少し座って待っていてくれたまえ」
 そう言ってヌサカーンは診察室兼手術室へと消えていった。私とヒューズはとりあえず手近にあった椅子を引き寄せて腰を下ろす。ほどなくしてヌサカーンがかなり分厚いカルテを手に戻ってきた。
「すごい量だな」
 その分厚さに目を丸くしたヒューズだったが、IRPO本部専属の病院に保管されている彼のカルテがあれ以上の分厚さであることは知らない。私は、半年ほど前に彼が任務中に大怪我を負って担ぎ込まれた時に初めて目にしたが、たかだか勤続五年でこんなにも怪我をした上に、あそこまでピンピンしている彼はやはりどこかクレイジーなのだろう、と妙に納得したものだ。
「彼は傷が絶えなくてね。その割に大きな怪我や病気はしないもんだから、あまりよい患者とは言えないのだが……と、これだな」
 とんでもないことを呟きながら、ヌサカーンは何枚ものカルテの中から一枚を摘み上げると、真ん中あたりを何枚かめくった後こちらに寄越した。
「これが昨日彼が訪れた時のカルテだ。左眉毛のちょうど上を五センチばかり切っていた。本来の治療ならば縫合、となるのだろうが、私としてはそんな縫うほどでもないと思ってね、この妖魔の白衣でささっとな」
「本当に、その節はお世話になりましたー」
「いつも世話してやってるだろう。やれ、喧嘩の仲裁に入って自分も怪我しただとか。君のカルテも一応作成しているのだが、ついでに見るかね?」
「いらねえ。頼まれても見たくない」
 私は少し見てみたいな。
 それはさておき、カルテによると、ワン・ヤオの怪我はそんなにひどいものではなかったらしい。傷口はきれいに切れていたようだが、傷自体はあまり深くなく、出血もさほどではなかったようだ。
「ふんふん。喧嘩していて、割れたビール瓶で切られたのが原因と。よくある原因だな。それはそうと、医者は悪筆だってよく言うが、例に漏れず素晴らしいまでの悪筆だな。サイレンスとタメ張るぜ」
 失礼な。これに比べたら私の方がまだマシだ。
「失礼だな。サイレンス君に比べたら私の方がまだマシだ」
 ……考えていたことは同じらしい。まあ、どっちもどっこいどっこいということか。
「それにしてもワン・ヤオってヤツはよく怪我してるな。四日にいっぺんはここに来てやがる」
 お前はもっと短いぞ。二日半に一回だ。
「彼はここの常連の一人でね。些細な喧嘩でよく殴りあいだの、果てには殺し合いに近いことまでやらかすから、本当に生傷の絶えない男だったよ。しかしまあ、そんな彼ももう来ることはないのだと思うといささか寂しさを感じるな」
 そうだ。彼は死んだのだ。このびっしり書き込まれたカルテも、もうこれ以上増えることはない。
 殺人事件が回ってくるたびに調査に出て思うことがある。なぜ、人間はこんなにも簡単に死んでしまうのだろう、と。妖魔ならほったらかしていても治るような傷が人間にとっては致命傷になる。ちょっとした傷口が治らず、死を招いた例も幾度となく見てきた。
 数百年の昔、初めてそれを目の当たりにした私は、なぜ人間がこんなにも簡単に死んでしまうのかということに興味を持った。それ以降、各地を転々としてその原因を探し続け、四年前にちょっとしたきっかけでヒューズと出会った。誘いを受けてIRPOに入り、犯罪捜査に携わっているのもその原因を探るためだ、ということもある。残念ながら未だにその原因を突き止められてはいないのだが。
「見てみたまえ。こっちのカルテは一週間連続ご来院だ」
 ヌサカーンが示したカルテを見ると、なるほど毎日ここに来ているのがわかった。理由は昨日とほぼ同じで喧嘩による負傷ばかりだ。
「しかし、何だってこんなに喧嘩ばかり……」
「ああ、それはだな。たいていが女性絡みなのだ。一緒に寝た女の恋人や夫に殴られたり、時には自分が捨てた女に刺されたり、よくまあ懲りないものだと思うほど繰り返す」
「うへえ。まあ、よくモテますこと」
「羨ましいかね? いつも愚痴っているロスター捜査官殿」
「んなわけあるか!」
「いやいや、しかし。彼は人間にしては美しい顔をしていてね。そうだな。例えるなら、ゾズマからあの珍奇な衣装を剥ぎ取って、普通の服を着させ、さらに顔を二割ほど悪くして、きざさを一割増し、フットワークの軽さを三割増した感じかな」
 まったく想像できない。いや、元が元なだけに私の頭が拒絶しているんだろうか。
「めちゃくちゃフットワークの軽いヤツだったんだな」
 お前にとってはそこが重要なのか。
「まさに。女のいるところならどこにでも現れるようなヤツだったそうだ。彼の仲間もそれには驚きを通り越して呆れていたらしい」
 ヌサカーンが洩らした一言に私たちは反応した。そう、彼の仲間なら、あの日、彼がどのような行動を取ったのかわかるかもしれない。さらにはうまくいけば容疑者も浮上する。シュライクで新たな情報が手に入る可能性もあるが、今集められる情報はとりあえず集めておきたい。
「なあ、その仲間ってやつを――」
 ヒューズがそう言いかけた時、ふいに扉が開かれ、男が情けない声を上げながら入ってきた。
「先生、ちょっといいかい?」
「おや、腕が腫れているね。また喧嘩でもしたのか?」
「まったくその通りでさ、これは折れてるかもしれねえ」
 人間の年齢でいうと二十四、五歳ぐらいだろうか。男は右腕を抱えたままよろよろと待合室に入ってくると、ヌサカーンの前に腕を突き出した。なるほど、ものの見事に腫れ上がっている。これはただの打撲ではなさそうだ。
「ふむ。こうやるとどうだね?」
 ヌサカーンが彼の腕を掴んだ瞬間、絶叫が部屋にこだました。
「なるほど。確かに骨にひびが入っているようだ。ちょっと我慢したまえ」
 そう言うとヌサカーンは羽織っていた白衣を脱ぎ、彼の腕にかざした。そして次に白衣を取り去った瞬間、まるで手品でもしたかのように、男の腕は腫れも引き、もう一方の腕と同じ状態に戻った。
「先生、いつもすまねえな」
「何、別に気にしないでくれたまえ。それより頼みごとが一つあるんだが」
 ヌサカーンはそこまで言って、私たちへと振り返り、こう言った。
「この男が、例のワン・ヤオの仲間の一人だ。どうぞ心行くまで質問したまえ」
 私は今まで彼はただの病気好きの変態妖魔医師としか思っていなかったのだが、この時ばかりはそう思っていたことを懺悔したくなった。この薄暗い部屋の中にも拘らず、彼の背後には後光が見えて、思わず目を細めてしまうほど、今しがた彼から発せられた言葉はありがたいものだったのだ。
「な、なんだ? こいつら」
「こういうもんだよ」
 証明書を手にヒューズが自己紹介をする。私もとりあえず写真だけ見せておいた。
「IRPOか。……ワンの捜査に来たのか?」
「ご名答。ちょうどワン・ヤオの仲間を探しに行こうと思ってたとこに君が飛び込んできたってわけ」
 勧められた椅子に腰掛けた――シーファンと名乗った――男の目の前へと移動し、ヒューズは次々に質問を投げかける。私は横でその会話を書き取っていく。いつものスタイルだ。
「じゃあ、今回も女は絡んでたんだな?」
「ああ。まあ、絡んでない方が珍しいんだけどよ。今回の女はまたケバい女だったぜ。確か、マリーとか呼ばれてたっけな。あんた、裏通りの武器屋知ってるかい? ――ああ、そうそう。あの地下鉄跡のすぐそばのさ。あそこでウリやってんだけど、なかなかの美人でさ。昨日の晩見かけた時は何か喧嘩してたけどな。原因は知らねえ」
「ちょっと待て。それ何時ごろだ?」
「そうだな。スクランブルに行く前だから九時過ぎかな」
 『スクランブル』とは裏通りにある、彼らが溜まり場にしている酒場らしい。
 それよりも重要なのは時間だ。調書によると、ワン・ヤオが殺害されたのは午後九時半から十二時の間。そこから考えると、ワン・ヤオが最後に一緒にいた人間がそのマリーという女性である可能性は高い。この考えは性急かもしれないが、もしかすると痴情のもつれで彼女がワン・ヤオを殺したとしても不思議ではない。
「いやあ。思ったよりも証言が取れるな。これなら解決も早いかもな〜」
 呑気な声でヒューズが呟いた。結局、あのシーファンという男にはワン・ヤオの人柄や、その他ちょっと疑問に思ったことをぶつけるだけに終わった。だが、この時間を持てたことで、ワン・ヤオという人物は私たちが今まで想像していた人物とはいささか違ったタイプの人間なのだと気付いた。
『なあ、頼むよ。アイツ殺したヤツ、絶対に捕まえてくれよな』
 出て行く直前にシーファンが言った言葉。そしてチャン・ウェーや薬局の店主の言葉。確かに彼はどうしようもない男だったかもしれないが、必ずしもそれだけだった、というわけではなさそうだ。
「よし。それじゃあそのマリーちゃんとやらを探しに行くか」
「おや、もう行くのかね。せっかく茶を用意したんだが」
 奥から盆にティーカップを乗せたヌサカーンが現れた。一見普通の紅茶に見えるが、匂いが何か怪しい。――これは危険だ。
 危険を本能的に察知した私たちは「気持ちだけもらっておく」と伝えて医院を飛び出した。扉を閉める直前にヌサカーンの呟きが耳に飛び込んでくる。
「まったく、最近の若者は新薬の開発に携わろうという社会貢献的な気持ちはないものかね……」
 やはり想像していた通りだった。

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