[絡む運命の糸・赤]
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燃える炎のような赤い髪は、ムスペルニブルの炎とどちらがより赤いのか。その美しき体を流れる蒼い血は、ファシナトゥールの空の蒼とどちらがより蒼いのか。誰もがそう噂する若く力強い妖魔は、今日も今日とて主君の声に追われながら部屋を飛び出した。
「よいな! 必ず見てくるのだぞ!」
「わかっておりますっ」
とうていわかっていそうにないはしゃいだ声で返事をすると、延々と続く城の階段を駆け下りる。緩やかな螺旋を描く階段を一段降りれば、それに合わせて彼のフロックコートの裾がひょこひょこと揺れる。
「あら、ゾズマ様。どちらへ?」
「ちょっとファガルスタンにね!」
「まあ。いってらっしゃいませ」
深々と頭を下げたミルファークに対し、片手を挙げて挨拶を交わすと、城の最下層にある厩へと向かい。
「ちょっと馬を出してくれるかな」
「では一人乗り用の……」
「ううん、馬だけでいいよ。馬車で行ったら傷がついちゃう」
そう言えば、話を聞いた男はすぐさま馬具を取り出し馬に据える。この馬具も、そして馬も全てはゾズマ専用の物だ。もちろん、与えたのは主君オルロワージュに他ならない。
彼の服に合わせたかのような黒毛の牡馬は、滑らかな光を放つ尾を振って主を迎える。
妖魔の世界は全て妖しの力で動いている。この馬もまた、妖力を持った馬だ。残念なことに(とは妖魔たちの言葉である)妖魔になれはしなかったが、生きているうちに妖気をその身に纏い、種の寿命の何倍もの命を持ちえた。この世界に存在する種の一つ、人間はこういった類のものを『化け物』として忌み嫌うが、お前たちも同じ種に乗っているではないか、と妖魔たちは常々馬鹿にする。
「準備が整いました」
「そう。ご苦労さま」
さて、ゾズマのこの妖馬を丁寧に世話しているのは、このリージョンで唯一、城に入ることを許された下級妖魔の男だ。だが、下級と言えども、その持つ技は素晴らしく、城主ですらこの男に馬の世話を一任するほどである。いわば、妖魔の社会の中ではひどく珍しい存在。名を持たぬ男だが『認められた者』と皆に呼ばれている。
その彼が磨いた馬具に跨り、彼が飼葉を食わせた馬の腹を蹴ってゾズマは城を飛び出した。目指すはファガルスタン。かつて、妖魔の君が君臨した妖魔のリージョンである。
頭の中に風景を思い浮かべて妖力を高めれば、次第に周りの風景はぼやけ、次に目を開いた時には目的の場所へと着いている。邪妖や下級では為せないこの技も、針の城随一の妖気の持ち主だと言われるゾズマにとっては朝飯前のこと。何せ彼は上級妖魔の中でも最も妖魔の君に近いと言われる存在なのだ。それはもちろん、オルロワージュの玉座の下で生まれたという事実がそうさせる。妖魔の君に近ければ近いほど格の高い妖魔が生まれる。その法則でいけば、彼はまさに最高の上級妖魔というわけだ。――まだ、成長途中ではあるが。
「ほんとに人間臭いリージョンだね」
着いて第一声、抜けるような青い空を見上げ、ゾズマはそうごちた。かつて、この地を創り出し治めた妖魔の君は、不思議と自然を愛する者だったという。
「およそ妖魔の秩序から外れたお方ではあったが、素晴らしい力をお持ちだった」
そう語るのは彼の元・臣下であったオルロワージュだ。かつてオルロワージュはヴァジュイールと共に、その妖魔の君に仕えていた。その頃、この世界に妖魔の君はかの君一人で、ともにこのリージョンで生まれた現・妖魔の君二人も自然とかの君に仕えるようになったのだと。
その後、かの君が寿命を迎え、静かに消滅していった時にも二人は側にいた。涙は微塵も出なかったが、それでも心にぽっかりと空洞が空いた気分になったという。それが哀惜という感情であることはわかっていても、それに浸っている暇はなかった。これから己は何を為すべきか。永遠に続くかに思えた仕えを失くした今、己は妖魔としてどう生きるべきなのか、と考え、二人は道を分かつことになった。そうしてそれから三百年後、二人の妖魔の君が誕生することとなる。
「なぜ妖魔の君になったと気付かれたのでしょう」
まだ幼かったゾズマのその問いかけに、オルロワージュは首を振りながら答えた。
「特にそのようなものはなかったが、ある日夢を見た」
その夢の通りにオルロワージュは、未だ文明のあまり開けていないファシナトゥールへと赴き、その中心にあった町を焼き尽くした。そしてそこに針の城を立て、主として収まった。それは現在のファシナトゥールの誕生として記されていることだ。
このようにしてファシナトゥールの君主として治めるようになったオルロワージュだったが、一つだけ気がかりがあった。それが、己が生まれた故郷ファガルスタンの存在である。
現存するリージョンには自然発生的に誕生したリージョンと、力を持った者が自ら創りあげるリージョンの二種類がある。オルロワージュのリージョン、ファシナトゥールは前者、同じく妖魔の君であるヴァジュイールの治めるムスペルニブルは後者、といったように。そして、二人の生まれた土地ファガルスタンは後者、つまりかの君が創りだした空間で、それゆえに一つの問題を抱えていた。
全てのものに寿命があるのは当たり前のことだが、リージョンにもまた寿命がある。それが何年、とはっきり定まっているわけではないが、自然発生したものにしろ、創造されたものにしろ、いつかは寿命を迎え混沌の中へと還っていく。特に何者かが創造したリージョンは、そこの主がいなくなれば崩壊する、という運命にあり、ファガルスタンもまた例外ではない。ただ、その崩壊の速度が、他のものに比べてひどくゆっくりしたものであるのだ。それが何ゆえと言えば、かの君の力の強さによる。
妖魔の創造したリージョンは主を失ってから早くて数年、遅くても五百年の間に崩壊するが、ファガルスタンは主を失ってから八百年、未だに存在し続けていた。最近、少しずつ崩壊の兆しが見えてきたとはいえ、それでもあと百年は持つだろう、というのが現在の妖魔の君の見解だ。
オルロワージュとヴァジュイールが共に妖魔の君となり、またよりを戻した時、真っ先に話題に出たのがファガルスタンのことだった。いつ崩壊するのかわからぬ我らが故郷を、最後の一日まで見守ろうではないか、ということだ。当時、ようやく人間も混沌を移動することが多くなり、ファガルスタンにもその手は伸びていった。己の故郷を離れ、ファガルスタンという地を新天地として選び、我が物顔で支配されるのも妖魔にとっては癪に障るのだろう。しかも、そのせいで、そこに住んでいた妖魔たちは追いやられ、徐々に数を減らしているといえば、その怒りはもっともだ。
「ファガルスタンにいる人間を全て追い出してやる」
それが初めにオルロワージュが出した案だった。だが、ヴァジュイールは首を振る。
「すでにあのお方は亡き身、我らが故郷も滅びる運命にある。今無理やり人間を追い出したところで、それは変えられん」
「ならばお前はこのまま見ているだけだというのか」
「そう言っているのではない。そうだな、せめてあそこで暮らす我が同胞たちを守ることか」
本来ならば目も向けぬ下級たちに彼らが心を注ぐのもまた、馴染み深い土地での出来事だからこそ。
「一年に一度、配下の者に様子を見に行かせる。これでどうだ」
「ふむ。その代わり、人間がおかしい動きをすれば、すぐさま私は兵を出すぞ」
「それはお前の勝手にすれば良い」
こうしてここに、ファガルスタンに対する約束が取り決められたのである。
さて、話はゾズマに戻る。生まれてからこれまで、年に一度ファガルスタンを見に行くのは彼の役目だった。それほど危ない仕事でもなく、それでいて妖気の強い彼にはもってこいの仕事だろう。今年もこうしてファガルスンタンに趣き、今やほとんどなくなってしまった妖魔の生息地へと馬を走らせる。
開けた土地に見える家の屋根は人間が建てたものだ。それも毎年広がってきているような気がする。そしてそれにつれて、森や川、緑の谷から妖魔の姿は消えていった。一つは、年々発生する妖魔の数が減っていること、そしてもう一つは――。
「まったく、ここが妖魔のリージョンってことくらい……わからないんだろうね。人間は」
やれやれ、とため息をついてさらに馬を走らせ、辿りついたのはうっそうと木々が茂る森だった。今このファガルスタンで、一番多くの妖魔が生息している森だ。この深い森にはさすがに人間の姿も見られない。一度見かけたこともあるが、それは迷い込んだ人間だった。どうせ、知らぬうちに死んだのだろう。
ここから先は馬では踏み込めない。余りにも道が悪く、下手すれば馬が脚を傷めてしまう。仕方がなしに、森の入り口に馬を繋ぎ、一直線に森の一番深い場所を目指す。そこには一人の邪妖がいるのだ。邪妖ながら、この森のリーダーとして、ここに住まう下級や邪妖に慕われている者が。
「まったく、何で邪妖が慕われてるんだろう」
それは妖魔たちにとっても不可解なことだった。邪妖といえば『見るにあたわぬ者たち』。そんな者が他者から頼りにされ、森を治めているだなんて、絶対的な身分で構成される妖魔社会ではあり得ないことだった。しかし、ここファガルスタンではそれが存在する。
「よくわかんないよ、この森の連中は」
そう零して足を進めようとした時、ふとゾズマは顔を上げた。
「誰?」
木々に半ば隠された空へと問いかけても答える者はいない。だが、誰かがいた。この森の妖魔だろうか。いや、それならすぐに気付くはずだ。例え邪妖といえども、完全に気配を消してでもいない限り、存在が気付かれないなんてことはない。
「出ておいでよ。別に消したりなんてしないからさ」
そう呼びかけても影はない。次第にゾズマも機嫌を損ねていく。
「何だよ、僕がせっかく声をかけてあげたのに――」
と、そこで上を見上げていたゾズマの視界にちらりと白いものが映った。慌ててその方向を見れば、なかなか大きな木に、ぽっかりと空いた穴が見える。
「もしかして鳥かな?」
鳥が巣を作っているのかもしれない。だが、それにしてはやけに静かだ。鳴き声の一言すら発せず、巣にこもる鳥がいるだろうか。
だが、ここはオルロワージュが時に声を張り上げるほど好奇心旺盛なゾズマのこと。よっと一声挙げると、その木へとしがみつき、服が汚れるのも気にせずするすると登っていく。くだんの木のうろへと手をかけ覗き込み、ついにゾズマを見ていた者との対面を果たすことができた。
怯えるわけでもなく、かといって出会いを喜んでるわけでもなく、ただ自分の領域へと侵入してきたゾズマを見上げていたのは、薄紫の瞳をした子供だった。
「やあ、こんなとこにいたんだね。僕、ゾズマ。君は?」
「…………」
「もしかしてまだ発生してすぐなのかな? しゃべれないの?」
そう尋ねても子供は反応しない。ただ、うろの入り口から入り込む風が、その白い髪をそよそよと揺らすだけ。だがここで、ゾズマが手を伸ばして触れようとすると、初めて子供は反応した。ずずっと後ずさる仕草を見せたのだ。つまりはひどく警戒しているということ。
「怖くないよ。ほら、おいで」
相手のことは構わず、その頬に触れるとすっと顔を逸らす。触れるな、と無言で訴えられて少々気分を害したが、一人で発生する妖魔なんてそんなもの、と知識に照らし合わせて息を吐く。自分はもう三十年も生きているのだ。ここは一つ大人の余裕を見せなければ――といっても、妖魔の三十歳など、人間に照らし合わせれば十五の少年と同じなのではあるが。
「まあ、いいさ。それに僕もそんなに暇じゃないからね」
切り捨てるようにそう呟いて、ゾズマはその場を後にした。とにかく先に用事を済ませて戻ろうと、鼻歌など歌いながらそのまま森の奥へと進んでいく。うろの中の幼い妖魔は、ここでようやく穴から顔を出してその後ろ姿を見送るが、もうゾズマが振り返ることはなかった。
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