[絡む運命の糸・白]
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ふと目を開ければ、そこは薄暗い穴の中だった。くり貫かれた出口の外にある色彩は濃い緑とそこから垣間見える抜けるような青。それがひどく恋しかった。まるで自分を呼んでいるかのようだった。
恋しさあまりに、足に力を入れ立ち上がる。遠いと思われていた出口は立ち上がればすぐ目の前に開いていた。続いて両腕をその穴のふちにかけ、ぐっと前へと乗り出すと、森特有の深い香りが鼻をくすぐり、軽く目を瞑って、その香りを全身へと取り込む。
その時、ざっと視界を遮るものがいた。白と黒の斑の羽、大きく見開かれた瞳。何なのかはわからなかったが、それはどうやら、こちらにひどい警戒心を抱いたようだ。脅すように声を二、三発した後、太い二本の足が子供の穴の外に出していた腕を掴み、無理やり引きずり出そうとする。柔らかな肌には鋭い爪が突き立てられ、そこから青い血がにじみ出る。ところが、痛みを訴えて叫んだとたん、驚いたのかそれはばさばさと大きな羽音を立てて飛び去ってしまった。
ようやく離してくれたと思っても、まだ腕は焼け付くように痛い。だがそれも数分のことだった。みるみるうちに傷は塞がり、まるで先ほどのことが夢であったのではないかと思うほど。唯一現実だと告げるのは、腕にこびりついた青い血だけだったが、それも綺麗に舐めとってしまえばそれまでで、子供はまた一人、薄暗い穴の中で座することとなる。
空は変わりなく青い。できれば外に出てみたいが、先ほどのように襲われるのも敵わない。どうしたらいいのか、と考えていたその時、何かの近づいてくる気配がした。耳をすませば、確かにがさがさという音がする。それに少々怯えはしたが、結局は好奇心が勝って、穴からそっと覗くと、真っ赤なものが道なき道を行くのが見えた。
「誰?」
その声に慌てて身を潜める。きっとあれはさっきの白いものと同じなんだ。またあんな思いをするなんて――と息を殺して様子を伺っていると、同じ声で二、三言葉が響いただろうか。次の瞬間、出口であるはずのあの穴から、その赤いものが覗きこんできた。
「やあ、こんなとこにいたんだね」
まるで自分を知っているかのように笑いかけてくる。どうやら雰囲気からして、先ほどのものとは違うらしい。聞こえてきた『ゾズマ』という言葉にまったく心当たりはないが、もしかして、自分をここから出してくれるのかもしれない。そう思うと自然と鼓動が高鳴ってくる。
しかし、それも一瞬のことだった。それが伸ばして来た腕の先に、あの白いものと同じ鋭い爪を見つけ、傷もないのに先ほどの場所がじりじりと痛む。
ああ、やっぱり同じなんじゃないか。そんな思いが起こればもう無理だ。頬に触れてきたのを顔を背けることで払い、ただじっと目を閉じてどこかへ行ってくれと強く願う。
やがて、願いが通じたのか、それは何かを口にして行ってしまった。だがそこでやっぱり待ってくれと言おうとしてももう遅い。関心が薄れればそれまで、あの赤い生き物はどこかへと消えていった。あとに残ったのは、穴から吹き込んでくる風の微かな音だけ。それを聞きながらぼんやりとしていると、今度は全身が真っ青なものがやってきた。
「なるほど、黒騎士サマの言ってたことは嘘じゃなかったんだ」
そう言うといきなり腕を伸ばして、彼は子供を抱き上げた。何が起こったのかわからず、暴れる子供に、
「暴れると落ちちゃうぞ」
と、少々強面で告げると、とたんに子供はおとなしくなる。そのまままるで風のように木々の間をすり抜け、訪れたのはこの深い森でも一番深い場所。日の光さえほとんど差し込まない薄暗い場所だった。
「アルファルド、いたよ!」
腕にしがみついていた子供を地面に降ろすと、彼はそのまま飛び去っていってしまった。これもまた風のように、とは当然で、あの男は風から生まれた妖魔だったのだ。
比べて、子供の目の前にいる者は木の幹のように濃い色の布をまとっていた。光を反射する銀髪は胸の辺りでゆるく重なり、そしてそれよりもずっと眩しい白い肌をしている。目は深い紫で、その中に映る自分を見て、子供はようやく己がどんな姿なのかを知る。
「この子が……」
男はそう言って、子供の頭に手を置いた。瞬間、ずずっと体が上に引き上げられるような感覚があり、それを確認したかのように手が戻される。
「さあ、もう大丈夫だ。何か言ってみろ」
言われて口を開くと、音が飛び出した。それよりもこの、後から後から湧き出してくるようなものは何か。それにとまどいながらもさらに音を出そうと試みると、それはするりと喉を通って吐き出される。
「あなたは?」
「俺の名はアルファルド。この森に住む中級……だったものだ」
「ちゅうきゅう?」
「そう。お前や俺を含め、妖魔の世界には格が存在する。俺は中級、お前はその力からすると下級だな」
ただ、とアルファルドは続けて言った。お前には何か不思議なものを感じる、と。
「昨日、夢の中にお前が出てきた。この幼い姿ではなかったが、あれは間違いなくお前だ。そしてお前は、君と呼ばれていた」
「きみってなに?」
「妖魔の中で一番上の位だ。それに続いて上級、中級、下級、邪妖となる。そうだ、お前はさっき真っ赤な髪をした男と会っただろう。あいつは魅惑の君オルロワージュの家臣、ゾズマだ。あいつは上級だな。しかもとびきりの」
玉座で生まれた子の話を知らない者は、おそらく妖魔の中ではいないだろう。初めはファシナトゥールとムスペルニブルで噂されていたものも、風妖の耳に入れば、瞬く間に世界中に広がる。
「オルロワージュ様の玉座で生まれた妖魔がいるらしい」
それはすなわち、生まれながらにして妖魔の君の座が約束されたようなもの。誰もが次に妖魔の君になるのは彼だと思っている。
「そうだとしたら、あの夢は何だったのかと考えてな。もちろん、この森で上級妖魔が生まれるはずなどない。ここはもう、主の姿さえとうに消えた場所だ。ここ二百年ほどは邪妖しか生まれていない。――だが、そこに下級のお前が発生した」
そこで、ふと彼は言葉を切った。そして次の瞬間。
「お前に名をやろう。お前はフィオロだ」
「ふぃおろ?」
「そう、それがお前の名だ。そして何より、この地を創り上げた妖魔の君の名――俺の見た夢は妄想に過ぎないだろうが、これも何かの縁だ。
さあ、フィオロ。森の仲間たちに挨拶にいこう」
立ち上がったアルファルドに手を引かれて、フィオロは一歩を踏み出した。生まれて初めて経験する「歩く」という行為にはまだ馴染めなかったが、ふらつけば、繋いでいる手がしっかりと支えていてくれる。
この森には多くの妖魔がいた。この森で生まれた者、そして他所からここへと逃げ込んできた者。兎から生まれた者もいれば、小さな泉から生まれた者もいる。花妖が微笑むその頭上を、空気を切り裂くように風妖が飛び交い、そのまま視線を巡らせれば、木の上で美しい羽を広げた鳥妖が歌を歌う。たたっと駆ける音が聞こえて振り返れば、そこには鋭い目つきの狼妖が立ち上がりこちらを見ている。
森にいる全てのものが何にも縛られず、伸びやかに暮らしている。これが本来の妖魔の姿だと言わんばかりに。
「ほら、お前の生まれた木だ」
アルファルドの声にフィオロが顔を上げれば、そこにはどっしりと根を張る木が、空へと向かって枝を伸ばしていた。そのやや上の方に、ぽっかりと暗い穴が口を開けている。
「じゃあ、ぼくはきのようまなの」
「いいや、違う」
アルファルドはゆるく首を振ると、うろへと指先を向けた。とたんに、その中から白い塊が飛び出し、広げられた手のひらに落ちる。
「これは梟の卵だ。おそらく、あのうろの中にはすでにお前の魂があったんだ。そしてそこに梟が巣を作り、雛が生まれた。お前の魂はきっと、あとは体を手に入れるだけ、というところまで成長していたのだろう。生まれたこの雛を取り込み、そしてお前が生まれた」
「じゃあ、そのひなっていうのはどうなったの」
「梟の雛としての生を終わらせ、お前になった」
フィオロには意味がわからないことだったが、つまりその雛がいたから自分がいるのだろう、とそれだけは何とかわかった。そしてさらに、この場所にいる者たちが自分にとっては敵ではない、ということも。
「そうだ。鳥がやってこなかったか?」
「とり?」
「そう、白と黒の羽を広げた、爪の鋭い鳥が来ただろう」
その瞬間、フィオロの頭を過ぎったのはあの痛みだった。腕がまたじりじりと痛みだして、知らず手をそこに当てれば、ふとアルファルドの笑いが聞こえた。
「すでに襲われた後だったか。親鳥も、まさか巣に産んだはずの卵がこうなるとは思わなかっただろうな。驚いてお前を巣から引きずり出そうとしたに違いない」
まあ、そんなことも珍しくはない、とアルファルドの大きな手がフィオロの頭に触れた。そのまま優しく撫でられれば、あれほどだった恐怖も少しだけ薄らいでくる。
「お前はこれから長い時間を生きていく。もちろん、外の世界を知りたければ、ここを飛び出してもいい。だがこれだけは忘れるな。――例えどこで生きていようとも、この森に住む者たちはいつもお前のことを思っている」
自分を思ってくれる仲間のことを決して忘れるな。そう告げたアルファルドに、フィオロは小さく頷いた。