[玉座の子]
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 その日、ファシナトゥールに一人の妖魔が発生した。
 妖魔の君オルロワージュが支配するファシナトゥールに妖魔が発生することなど別段珍しいことではなかった。だが、それでもこの妖魔の誕生はオルロワージュ自身ですら興味を持ったほどだ。何せ彼が発生した場所は、針の城の謁見の間だったのだから。
 通常、妖魔は他の妖魔の妖気を受けて発生する。だが、妖魔の君の場合、ごく近くで発した妖魂――妖魔の発生の元となるもの――は、妖魔の君から発せられる強大な妖気によって、気付かぬうちに消滅させられることが多い。それゆえ、妖魔の君の足元から妖魔は発生しないというのが定説ではあるが、ごく稀に例外も存在する。このたび発生した妖魔もその例外に当たるというわけだ。
 玉座のすぐ後ろに宿った妖魂は、誰にも気付かれることのないまま、そして消滅することもないまま、延々とオルロワージュの妖気を受け続けた。時間にしてざっと百年と少しだろうか。
 ある日、いつものようにオルロワージュの横に座したミルファークが声を上げた。
「オルロワージュ様、このようなところに魂が」
「なに?」
 怪訝に思い立ち上がったオルロワージュの目に映ったのは、紅と黒が混じりあったままうねる小さな魂だった。大きさはちょうど両手で持てるほどのもので、見た目からしても、かなり前からそこにあったことがうかがい知れる。
「何と珍しいことだ」
「それで、いかがなさいましょう」
「なに、これほど珍しいこともそうそうあるまい。すぐにヴァジュイールを呼べ」
 どこか嬉しそうにもう一人の妖魔の君の名を口にして、オルロワージュは改めてその妖魂に視線を注ぐ。見れば見るほど不思議な色だった。これほど濃い色も珍しい。これはひょっとしてとんでもない奴が生まれるのでは、と思うと、淀んでいたオルロワージュの瞳に心なしか光が差したように見えた。
 しばらくして、針の城の妖魔たちが恭しく頭を垂れる中、漆黒の髪をなびかせ訪れた妖魔がいた。
「どうした。何か面白いことがあると聞いたが」
 訪れた男もここの城主と同じくいわば暇人。面白いことと聞けば即座に飛んでくるのは当然のことだ。もちろん、オルロワージュもそれがわかっていて彼を呼んだ。一つはこの珍しい出来事を見せてやるため。もう一つはこれを見せて「どうだ。いいだろう」と自慢するため――と言えば程度が低いが、要するに己の力を誇示したいのだ。
 数十年のずれで発生したこの二人の妖魔は、同じ主に仕え、同じように力を蓄えてきた。やがて、八百年前に主が消滅したのをきっかけに道を違えることとなったが、二人してその後、妖魔の君としてこの世界に君臨するようになり、再び縁を結んだというわけだ。
 元がそうだったからか、この二人はことある毎に己の力を見せつけたがる。それはまるで、子供同士が持っているおもちゃを見せ合うのに等しいものではあるが、その例に漏れず、最後は互いに相手を認め合ってまた別れる。今日もまた、それと変わらぬものだった。
「ほう、こんなところに魂がな」
 うねる小さな妖魂を見つめ、ヴァジュイールは目を細めた。とたんにオルロワージュが嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「どうだ、珍しいだろう」
「うむ。絵に残しておきたいほどだな」
 二人の妖魔の君が揃ってしゃがみこみ、妖魂を中心に会話を繰り広げるなど、こちらの風景の方を絵に残すべき、と思った側近は数知れず、言えば消滅は必至なので絶対に口にはしない。ただ、二人の会話を聞き、気まぐれに同意を求められれば「御意」と答えるだけだ。
 しかし、その空気が打ち破られようとしていた。どこから迷い込んだか、蝙蝠が一匹、微かな鳴き声を発しながら謁見の間へと飛び込んできた。吹けば飛ぶような小さな命に誰も気付くことはない。もちろん、妖魔の君も然りだ。
 蝙蝠はふらふらと高い天井へと焦がれるように、あっちへ向いてはこちらへ戻り、少しずつ部屋の中を進んでいく。時に絡みつく薔薇の棘を避け、時に壁にぶつかりそうになるその姿は、どうやら深手を負って参っているらしかった。それでも、この異質な空間から抜け出そうともがくが、悲しいかな、もう外の空気の臭いすら忘れたか、今度はオルロワージュの玉座へと落ちていく。
 真っ先に気付いたのは玉座の横にいたミルファークだった。
「オルロワージュ様、蝙蝠が――」
「なに?」
 魂へと視線を注いでいたオルロワージュと、そしてヴァジュイールが同時に顔を上げると、そこにはもう目の前にまで迫った蝙蝠の影。
「……死にかけか?」
 そう言ってヴァジュイールが手で払おうとしたその瞬間、二人の間にあった妖魂の輝きが増した。
 それはまるで、獣が餌へと飛びつくようだった。ちょうど腕を伸ばしたように妖魂の一部が上へと盛り上がり、落ちてきた蝙蝠を包み込むと、素早く己の中へと取り込む。「チッ」と小さな悲鳴が聞こえたか。一瞬にして蝙蝠の姿は見えなくなった。それと同時に妖魂が膨らみながらその形を変えていく。美しい球体であったものが二つの節に分かれ、その一つからさらに四つの枝が伸び。見えない誰かが目の前で粘土細工をしているかのように見える中、それはみるみる形を変えて、やがて皆が一つの物を思い浮かべる。もちろん、それは己たちと変わらぬ姿――。
「生意気そうな子供だな」とは、その顔を見たヴァジュイールの弁。
「いや、なかなかに利口そうではないか」
「言うな。今に手を焼くことになるぞ」
 ミルファークがな、と付け足してオルロワージュの顔を見ると、彼もヴァジュイール同様薄い笑みを浮かべて、生まれたばかりの妖魔を見つめていた。妖魔の誕生など何でもない事象だが、その瞬間に立ち会うことはひどく珍しい。長く生きてきた彼らとて、その瞬間を見たのはまだ二、三度に過ぎない。
「よし。余が自ら名を与えてやろう」
 さて、何とつけてやろうか。雄々しい名が良いか。それとも頭が良さそうなのを元に名付けてみるか。
「レグルスなどはどうだ?」
 ヴァジュイールが首を突っ込む。
「『小さき王』か。いつか我が玉座に座る日が来ると?」
「ふむ。それは幸先良い名ではないな」
「これは珍しい。お前が私の心配とはな」
「違う、この子供の心配だ。王となる前にお前に消されてしまいかねん」
「言ってくれるな。ならば……アルテルフ。そうだ、アルテルフが良い」
「『目』とは。確かに、目に力がある。だが、少々安直過ぎはせんか」
「なかなか良い名だと思ったのだがな。さて……」
 二人とも真面目に考える気があるのか。その後も飛び出したのは、『二本足』だの『赤』だの、子供が黙っているのをいいことにあれやこれやと陳腐な名前を出す。だが、どちらかが良しと言わず、このままでは夕餉へとなってしまいそうだった。
「名前を決める、というのもなかなか骨の折れることだな」
「まったく、お前が文句を言うからだ」
「そう言うお前こそ、私の出した名前に否ばかり唱えるではないか。そもそも、こやつは我が城で発生したのだぞ。私が好きに名前を決めて、なぜそれにお前が文句をつける」
「子供のことを思ってだ。まったく、お前の思いつく名前と言えば、あまりにも下らぬ」
「なんだと? そういうお前の挙げる名前も、教養の欠片も感じぬものばかりではないか」
「なに? 黙って聞いていれば言ってくれるではないか」
「ふん。『黙って聞いている』とはまた冗談を。貴様から口を挟んでおいて――何だ?」
 謁見の間の空気がびりびりと震え始めたその時、オルロワージュの服を掴む者がいた。己のことながら、完全に蚊帳の外に置かれていた、かの生まれたばかりの妖魔である。少しばかり頬を膨らませているのは、己を無視して話を進める『大人』への抵抗か、それともただ単に構ってもらえないことが不服なのか。
「如何した? と、まだ言葉は喋れぬか」
 座り込んだまま、目の前にあったオルロワージュの服を握るその手をやんわり離してやろうとするが、思ったよりも強い力で握っている。これは何か言いたいのか。
「これが欲しいのか」
 言葉はわかるのか、それに小さく子供が頷いた。とたんに、目を吊り上げていたオルロワージュの顔にぱっと光が差す。
「よし、こんなもので良ければくれてやろう。――我が玉座の元で生まれたお前がいつまでも裸のまま、というわけにもいかんしな」
 言ってその小さな手を離すと、服の上から巻きつけていた布を一枚取って子供の体にかけてやる。薄く透き通った布は、肌を隠すには余りにも足りないが、それでも子供は嬉しいと言わんばかりに愛らしい笑顔を見せた。
「腰布如きでここまで喜ぶとはな」
「おおかた模様でも気に入ったのだろう。別になければ困るものでもなし、くれてやったところで……」
 と、そこでオルロワージュがふと言葉を切った。視線の先には、与えられた布を持ち上げ、口に食み、遊ぶ子供。この取るに足らない、とオルロワージュが言う布がたいそう気に入った様子だ。
「腰布……そうだ、ゾズマだ。こやつの名はゾズマだ!」
「なるほど、ゾズマか。確かにそれ以上に相応しい名はあるまい!」
 大人たちが笑い声を立てる中、幼子は一人、きょとんとした目で二人の王の顔を見つめていた。

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