[幸福のアクアリウム]
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 目の前に広がるのは深い蒼。話に聞いている兄の瞳も、きっとこんな色をしているのだろう。そんなことをルージュは思った。
 ガラスを隔てた向こうには、まるで空を飛んでいるかのように、大きなエイがひれを羽ばたかせて悠々と舞う。その横を小さな魚たちが群れをなし、やがて正面にやってきたまだら模様のサメを避けるかのように上下に分かれ、相手が通り過ぎたところでまた合流する。もちろん、サメもそれをわかっていて、決して口を開けることはない。のんびり、ゆったりとひれを動かしながら、その体では少々狭い水槽の中を泳ぎまわる。
 初めてここを訪れたのはもう三ヶ月も前になるだろうか。
「お前、水族館行ったことないの?」
 目を丸くしてそう聞いてきたのは、ここ、シュライク出身の少年だった。それにルージュは首を振る。生まれてこのかた、学院から半径10kmの距離しか移動したことがなかった上に、故郷には「魚を見て楽しむ」というのは、個人的な趣味でしかなかったためか、そのような娯楽施設は存在しなかった。もちろん、それは術が全てというマジックキングダムの特性もあったが、外遊に出てからも何だかんだと巻き込まれ、そんな施設を知る余裕すらなかったのだ。
「だったら連れてってやるよ!」
 勢いよくルージュの腕を掴み、彼は町の中心部にある水族館に連れてきてくれた。そして踏み込んで一歩、蒼色が支配する静かな空間に魅了されてしまったというわけである。
 それからというもの、暇さえあればルージュは水族館に通った。入るのにそんなに金はかからない上に、自分でも驚くほど時間が過ぎるのが早く感じる。これはいい暇つぶしになると思ったのは初めの頃だけで、いつしか、この場所が自分にとってもっともリラックスできる場所となっていることに気付いた。
 悠々と泳ぐ魚たちは、確かに水槽の中に閉じ込められた存在だった。それなのにどうだろう。この、自由きままを感じる余裕というものは。時には中ほどをゆったりと、たまに水槽ぎりぎりまで迫ってきて、人々の歓喜の声をこれでもかというほど浴びる。海の中で生きているものたちと何ら変わりはないはずなのに、ここの魚たちはそれぞれが己の存在を主張し、認められていた。それを自分と比べていたのだろう。「外遊」という名目で世界各地をうろつけるとはいえ、その先にはどうしても逃げられない試練が待っている。それがどうなるのかは未だわからなかったが、できることなら避けたい、いや、相手を説得して回避したいという考えは日増しに強くなり、その結果、術の資質を集めるという行動に鈍りが出始めていた。
 そんな時に出会ってしまったこの場所を「逃げ場」と称しても偽りはない。だが、この深い蒼を見つめているだけで全てを忘れることができる。自分の歩いてきた道に対する疑問も、試練への恐怖も、そしてまだ見ぬ兄への不安も全て。
 だからルージュはこの場所が好きだった。日がな一日、ぼんやりと水槽を眺めることがたまらなく楽しかった。
「あら、お兄さん。また来たの」
 受付に座っていた中年の女性がその顔をほころばせる。こうも毎日通う客も珍しいと彼女は言う。
「もしかして、意中の人がここで働いてるのかしら」
「いえ、そんなことはありませんよ」
 投げかけられた質問に少々驚きながらもそう答えると、彼女は「あらあ」と小さく声を上げた。どうやら読みが外れたらしい。
 中で働いている同僚から「珍しい客がいる」と言われた時にはピンと来た。特に何をするでもなく、毎日のように顔を見せる赤い魔道着の青年は、館内の職員の間でもすっかり噂となっており、その目的は何だといろいろ気にしている人もいた。どんな客でも、こう毎日通ってくれると自然と顔も覚えられる。それが、シュライクでは珍しい魔道着なんてものに身を包んでいる者ならなおさらだ。
「あれはキングダムの術士だ」
 知っている人間が口にする。
「どうしたのかしら。家出?」
「いやいや。あの格好をして旅をしている人はキングダムでも優秀な人材だっていうよ」
 いわば、上層部が金を出して外遊させてるエリートさ。誰かがそう口を挟めば、まあ、と他の誰かが声を上げる。
「水族館に何かあるのかしら」
「もしかして、キングダムに水族館を作る予定なのかも」
「それって視察団ってやつ?」
 そう噂をする人々をよそに、一人の青年がぽつりと呟いた。
「だけどあの人、なんか寂しそうだね」
 そうかと疑問の声も上がったが、彼の言う通り、水槽を見つめるルージュの目はどこか寂しそうだった。だが、何を思ってそんな顔をするのか。それは誰も知らない。
 そしてそれは、ルージュが姿を消したその日まで知られることはなかった。



「ねえ、水族館って知ってる?」
 そう口にしたルージュに、いつもの冷たい視線が突き刺さる。
「馬鹿にしてるのか」
「別にそんなつもりじゃなくて。ブルーは水族館に行ったことある?」
 少し質問を変えてそう問いかけると、ブルーは簡単に首を横に振った。
「そういう娯楽施設があるというのは聞いたことがある。だが、実際に行ったことはない」
 だいたい、魚なんか見て何が楽しいんだ、と吐いた彼に対して、今日のルージュはいつも以上にしつこく食い下がった。何が何でも水族館に行きたいのだと言う。じゃあ勝手に、とブルーが口にすると、これでもかというほど首を振って声を大きくする。
「違うんだ。ブルーと一緒に行きたいんだよ」
「俺は興味ない」
「そう言わずに、ね。そうそう、こーんな大きなエイやサメが、こーんなに小さな魚と一緒に泳いでるんだよ。なのに、誰も食べないの。みんなで仲良く水槽の中で泳いでるんだ」
「それは餌をもらってるからだろう。やらなくなったら、一気に食い荒らし始めるに決まってる」
「……それはそうだけど。じゃあ、じゃあさ。マンボウって見たことある?」
「あのふざけた顔の魚か」
「ふざけた……そんなことないよ。かわいい顔してるよ」
「あれがかわいいのか。双子でも感性は違うといういい証拠だな」
 取り付く島もないのはいつものこと。それがわかっていて、いつもルージュは懇願する。あそこへ行きたい、ここへ行きたいと、まるで旅行が趣味の人のようにこれが駄目ならこちら、と次から次に場所を決める。旅行者と違うところといえば、それが全て「ブルーと行きたい」というわがままがくっついているということくらいか。
 人はそれを「かわいいわがまま」と称するが、ブルーにとってはいい迷惑だった。
 彼はどちらかと言えば室内でのんびりするのを楽しむ――よく言えばインドア派、しかしその実態は引きこもりに等しい。何せ、近所の店に買い物に行くのも嫌がる。面倒くさいというのが口癖だが、実はそういった場所での簡単なコミュニケーションがうまくない、というのがルージュの見解だった。だから、いつも頼まれてルージュが買いに行く。その間、ブルーは何をしているかと言えば、あの厄災で燃えた図書館からわずかに残った本を持ってきては読みふけっている。何か面白いことが書いてあるのかと一度ルージュは聞いたが、返ってきたのは、暇つぶしだという簡単な答えだった。特に面白くも何ともない本だが、知識を詰め込むにはちょうどいい、とそういう言い分だ。
 そういうこともあり、ブルーが表に顔を出すと言えば三つに絞られる。図書館への道と、月に一度の復興会合。そして最後の一つが「ルージュのお願い」。
 今回、ブルーが外に出たのは最後の一つだった。結局、しつこく食い下がるルージュにブルーが白旗を振ったのだ。
 シュライクへと向かうシップの中でもブルーは不機嫌だった。一つはどうして魚を見るためにでかけなければいけないのかということ、もう一つはこの移動手段にある。ゲートを使えばすぐ済むものを、ルージュはシップを使いたがる。それは本人に言わせれば、
「なるべく長く一緒にいたいから」
 というかわいらしい理由だったが、四六時中同じ家にいて何を今更、とブルーは言う。
 ゲートなど何の難もない術だった。正直、唱えるだけならば近所の子供でも出来るだろう。それほど簡単な術だが、これには一つ道具が必要だった。リージョン移動という、今はもうキングダムでも幻となっている道具だ。以前は盛んに作られていたが、リージョンの組織自体が瓦解してしまった今、それを作ろうとする人間もいない。そもそもあれは、外遊する魔術師のみに与えられる道具で、一般にはまったくと言っていいほど浸透していない。それをわざわざ作ろうという人間がいないのは当たり前だ。だが、その魔術師の最後の生き残りであるブルーは、しっかりとその道具を持っていた。かたや、ルージュはといえば「なくしちゃった」の一言で、それにブルーが頭を抱えたのはもうずいぶん前のことになる。
 実際、ブルーは何かの用事で出かけなければいけない時は必ずゲートを使っていた。そっちの方が時間が短縮できていいのだと言うが、こと旅行に関しては、ルージュはひどく否定的だった。
「それって何だか味気なくない?」
「目的地に着けばそれでいいだろう」
 そんなやり取りは今も平行線を保っていて、和解できる兆しは少しもない。だからこそ、シュライクに到着してからも、ブルーの顔は不機嫌なままだった。
「二時間」
「え?」
「ここに来るまでにすでに二時間だ。あとどれくらいかかるんだ」
 うんざりだとばかりに顔をしかめたブルーを連れ出し、がたがたと電車に揺られながらさらに三十分。目的地に到着した時の二人の顔は笑ってしまうくらい対照的だった。
 もちろん、中に入ってもそれは変わらない。ルージュが何だかんだと解説をする横で、ブルーはぼんやりと水槽を見つめては、まだ話の途中だというのに隣の水槽に移ろうとする。立ち止まってせいぜい三分か。このままいけば、この広い水族館を最短時間でクリアした人間という称号をもらってしまいそうな勢いだ。
 だが、彼は彼なりに楽しんでいたらしい。それをふとルージュは耳にすることになる。
「八十八匹、だな」
「何が?」
 そう問いかけると黙って水槽をあごで指す。つられてルージュが水槽に視線を戻すと、そこには小魚たちの群れがいくらかあった。
「まさか、全部数えてたの?」
「ここだけじゃない。さっき見た水槽は三十二匹、その隣は八匹だ」
 どうやら、初めからずっと数えていたらしく、今までの総数まで口にしたブルーに、ルージュは思わず笑いを漏らした。
「そんな楽しみ方する人、初めて見た」
「他にすることがないんだ。見てるだけじゃつまらないだろう」
「じゃあ、僕の話は聞いてた?」
「まあ、適当にな」
 彼が適当と口にする時は、案外きっちりと聞いていたということになる。それにルージュの笑みはますます大きくなる。
「じゃあ、次行こう、次。次は大きな水槽だから、数えるのにも時間かかるよ」
 平日の、まだ人も少ない午前中の水族館の中を、ブルーの手を引いて歩き回る。その幸せそうな姿を見ていたのは、魚たちだけではない。
「あの人、久しぶりに来てたよ」
「ああ、あのキングダムの人。私も見た」
 そこに口を挟んだのは、あの時の青年だった。
「でも前とは違って、すごく楽しそうだったね」
 それがなぜなのかは知らずとも、その場にいた全員が確かにと頷いた。
 蒼く染まるこの場所で、再びあの客の寂しそうな顔を見る人間はいないだろう。

|| THE END ||
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