[07:朧月夜]
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「もう来るなって言ったろう」
開口一番、目の前の男は久しぶりの客人を突き放した。
あの一件以来、このリージョンは朝を迎えることはなくなった。今なおさまよい続ける亡霊が、それを良しとしないからだ。ゆえに、生き残った人間は皆出て行った。生きている人間は日の光がなければ生きていけないからだ。
生と死は相容れられない。その事実を物語る『死んだ』リージョン――ワカツ。
「それに従うのは俺の性分に合わん」
「相変わらずの頑固だな。ゲン、お前は昔からそうだった」
男は目の前で荷物を降ろす友を見下ろしそう呟く。空気が震え、そして再び静寂が戻った。
友はただ黙々と袋から荷物を取り出す。砥石と水の入った酒の瓶と。
「おい、それは酒なのか?」
男が身を乗り出した。期待に満ちたその目を見返し、ゲンは「馬鹿か」と返した。
「酒で刀を砥ぐ馬鹿がどこにいる」
「まさか。わざわざ俺のために持ってきてくれたのかと思ったんだが」
低い声で男が笑った。
この男、酒には目がない。酒には強いと自負するゲンも、彼と飲み比べて勝ったことはなかった。
黙ったまま、ゲンは石の間に挟まった刀を引き抜いた。少しの錆びはあるものの、ぼんやりとした月明かりの中で、その身が鈍く光る。
「思ったよりも錆びてないな」
一人呟いてゲンは濡れた砥石の上に刀を横たえた。
すぐに石と刀の擦れる音と時折水がかかる音が辺りにこだまする。それ以外、向かい合っている二人でさえ、言葉を交わすことはない。
「……いつもすまんな」
沈黙を破ったのは、刀の蘇る様を見ていた男だった。ふいに手を止めたゲンが見上げると、男は軽く首を振った。
「手前の刀一つ砥げんとは――情けない」
「……誰も、今のお前に刀を砥げなんて無茶は言わねえ」
「わかってる。わかっちゃあいるが……なあ?」
そう言って男はふっと笑った。あの頃は見せることもなかった憂いを帯びた瞳で。
「なあ、ゲン」
「今度は何だ?」
再び刀を砥ぎ始めたゲンは視線を上げずに答えた。
「お前は、誰に弔ってもらう?」
返事はない。ただ、先ほどと同じように刀の砥がれる音が続くだけだ。
「なあ、どうだ?」
「どうも何も……知らん」
「愛想のない答えだな」
笑いを含めた声で男が言うが、ゲンは怒りも笑いもしなかった。ただ黙って刀を砥ぎ続けるのみ。両手を刀身に沿え、押したり引いたりと、単調な動きを繰り返す。
やがて、刀は本来の輝きを取り戻した。
「見事なもんだ」
「お前ほどじゃあない」
淡い月明かりの中でも冷たい輝きを放つ刀を見つめ、男はすっと目を細めた。
「いいや、俺よりもいい腕をしてやがる」
嬉しそうに男がそう言ったのを見て、ようやくゲンの顔にも微かな笑みが浮かんだ。
「ほらよ」
収める鞘すらない刀を、抜いた時と同じように積み重ねられた石の上へと突き刺す。倒れぬように周りの石を少しばかり動かして、ゲンはようやく立ち上がった。
「じゃあ、俺は行くからな」
荷物を肩にかけ、ゲンは男へと向き直る。
「達者でいろよ……と言うのもおかしなもんだが」
「達者で、か。俺がお前に言わなきゃならんのだがなあ」
「そりゃ違いねえ」
今度こそ、ゲンは笑った。男も笑った。二人の笑い声が月夜に響いた。
「それじゃあな」
「ああ。来年もまた来るぜ」
「来なくていいって言っただろう」
男がそう言うのに片手を上げて答えると、ゲンは真っ直ぐ船着場へと歩き出した。
ふと振り返ると、ぼんやりとした中に男の姿がうっすら光って見えた。ひたすら手を振り続けるその姿に同じ仕草で返し、また歩き出す。
「……誰に弔ってもらう、か」
男の問いかけを今一度繰り返す。
「俺は、お前に弔ってもらうつもりだったんだがなあ……」
ふっと笑ったゲンの後ろ、手を振り続けていた男の姿がすうっと闇の中へと溶け込んでいった。
|| THE END ||
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あとがき