[The Adventure of the Aimed Man] -01-
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 その事件が飛び込んで来たのは、トリニティの第七執政官モンドの謀略が終わって数ヶ月、そろそろ季節が夏へと移り変わろうとしていた頃だった。
 いつものように特別捜査課の扉を開けた私の耳に飛び込んできたのは相棒――『クレイジーヒューズ』の愛称で有名なロスター捜査官――の豪快ないびきだった。大きく広げられた口からは唾液が零れ落ち、革張りのソファに水溜りを作っている。この部署唯一の女捜査官であるアイシィ・ドールことタリス捜査官に見つかったらただでは済まされないだろう。
 だが起こすのも面倒。なんせこの男は驚くほど目覚めが悪いのだ。寝起きの彼の凶悪さを、この部署で、いや、このIRPO内で知らない者はほとんどいない。かくいう私もここに入って間もない頃にその洗礼を受け、『触らぬ馬鹿に崇りなし』ということを学習したクチなのだが。
 ……いかん。あの時のことを思い出したら腹が立ってきた。今まで数百年生きてきたがあんな屈辱は初めてだった。いくら世話になった人間とはいえ、その場で妖魔の剣に吸収してやろうかと思ったほどだ。しかし残念ながら、人間は吸収できない上に、例え吸収できたとしても役に立ちそうな憑依能力もなさそうだったので諦めた。今は別の方法で何か一泡噴かせられないものかと思案中だ。
 ようやく怒りが収まり、彼のいびきを背中に受けながら自分のデスクの椅子へと腰を下ろす。壁にかけられた時計を見ると針は午前七時半を指していた。廊下では夜勤明けの者たちが交代を終えて雑談を交わす声がざわざわと聞こえるが、その半分は後ろで響くいびきにかき消されている。まさしく、爆音というものはこういうものを言うのだ。静かな部屋で朝食を、と思ってこんな朝早くに来たのに、まったく今朝はツイてない。――仕方がない。屋上に向かうことにしよう。



 屋上は爽やかな朝の日差しに包まれていた。ありがたいことに誰もおらず静かな上に、さっぱりとした風が吹いていて、まこと朝食にはうってつけだ。明日からはしばらくここで朝食を摂ろう。
 持参した巾着を開けると、蜂蜜の入った小瓶を取り出す。蜜蜂の描かれた瓶の中には黄金色の液体が揺れ、それを見ているだけで口の中に唾液が溢れてくる。数年前に同じ特別捜査課のレンにもらったハンテンボクの蜂蜜だ。彼の出身であるヨークランドの隠れ特産品(と彼は言っていた)らしい。
 生まれてこの方レンゲやリンゴの蜜ばかりを吸って生きてきた私は、初めて舐めた時にこの蜜のさらっとしていて、それでいて花の蜜を直接すするのとは違った濃厚な感触に衝撃を受けた。それ以来、病みつきになりケース単位で買っている。
 食欲が抑えられなくなり、瓶のふたを開けると、持参したストローを挿して一気に吸い込んだ。それと同時に口の中に広がる柔らかな甘み。
 ああ、これだから止められない。やはり蜂蜜はハンテンボクに限る。
 レンはこの木に咲く花が良いなどと言っていたが、見て楽しむだけの花なんかより蜜の方が腹が膨れていいに決まってる。まったく人間の感覚というのは未だに理解できない。
「ちょっと、サイレンス。こんなとこにいたのね」
 至福の一時を破ったのは、そんなドールの一言だった。目を開けると下へと続く階段の扉にもたれかかった彼女と目が合った。頬がほんの少し上気しているところを見ると、どうやらヒューズに対する制裁は終わったらしい。
「お食事中悪いけどちょっと来てちょうだい。新しい事件が舞い込んだの」
 今度は何だ。殺人か? それとも窃盗か? まあ、何であろうとこちらに回ってきたということは、それだけ特異な性質の事件であることに変わりはない。
 やれやれ、今度はどのぐらいかかるのか。そんなことを考えながらせっかくの朝食をしまいこみ腰を上げる。
 この仕事の悪いところはゆっくりと休息が取れないところだ。三日や四日寝ずにいることなど妖魔にとってはどうってことはないのだが、腹のすいた時にゆっくり食事を取れないのは少々辛い。ちょうど今のように、ゆっくり食事を摂っている時に事件が舞い込むなど日常茶飯事なのだ。
 これも全て人員不足故なのだが、特別捜査課は請け負う事件も特殊、ということもあってか、なかなか人員の補充ができないのが現状だ。現に、今のうちの部署での最低年齢はヒューズの口利きで入ってきたレンであり、彼が入ってきてからの三年間、一度も人員が補充されたことはない。
「さあ、早く!」
 ドールに急かされて慌てて階段を降りる。途中でエレベーターに乗り換え、ようやく部屋に戻ってくると、いきなりヒューズに肩を掴まれた。
「おい、サイレンスぅ〜」
 何だ。そんな恨めしい目で私を見るんじゃない。
「あのさ。俺、昨日の晩メールしたよな? お前が来た時に俺が眠ってたら、ドールが来る前に起こしてくれってさ。お前もわかったって顔文字付きで返事くれたよな?」
 そんな約束したか? ――ああ、そう言えば昨日寝る前にそんなメールを見たような気もするが、いかんせん五日間ほぼ不眠不休で働いた後だったから眠気が先立って何と返したのかなど覚えていない。
「おいおい! こんな時までだんまりかよ! お前のせいでなあ、俺はドールに――」
「サイレンスのせいじゃないでしょ。あなたのこの閉まりのない口さえなかったら、こんなことにはならなかったんでしょう!?」
 言うなりドールはヒューズの頬を掴んでひねり上げる。元から歪んでいる彼の顔はさらに歪み、悲鳴を上げる声もどこか間抜けだった。
 ようやく開放されたヒューズはぶつくさと文句を言いながらもデスクに腰を下ろす。先ほどのも加わって、彼の顔は右目に殴られたあざ、そして左頬には指の跡がくっきりと残り、なかなか壮観だ。
「それで、今度は何なんだ?」
 私が腰を下ろしたのを待ってドールが手に持った紙を持ち上げる。
「事件の発端と概要を説明するわ。クーロン署に通報が入ったのは午前二時三十四分。通報者は被害者の同居人チャン・ウェー、二十二歳で、アルバイトから帰宅した時に被害者が殺されているのを発見し通報。被害者はワン・ヤオ、二十四歳。死因は喉を切られたことによる失血死。部屋は荒されていないことから、怨恨による殺人とクーロン署は見ていたの。まあ、ここまでならただの殺人事件でうちに持ち込まれることもなかったんだけど」
 そこまで言うと、ドールは次のページをめくり、ため息をついた。
「実は先週、シュライクでも同様の事件が起こっていたのね。被害者は井波武雄、二十三歳。こっちも同じように首を鋭い刃物で切られて死んでいたんだけど、一見何の共通点もないこの二つの事件に一つだけ共通することがあったのよ」
「何だ? 同じ女を取り合ってたとか?」
「最後まで聞いてちょうだい」
 ぴしゃりと言い放ち、ドールは続ける。
「被害者の体からはそれぞれ指が一本なくなっていたの。シュライクの被害者は左手薬指、そして今回のクーロンでも左手の薬指。そこでシュライク署とクーロン署が話し合った結果、リージョンをまたいだ殺人事件ということで本部に事件が持ち込まれたというわけ」
「さらに連続殺人として長期捜査になりそうだから、俺らに回ってきたんだな」
「ご名答。いつもと違って頭が冴えてるじゃない」
「な、なにおー!」
 ヒューズはそう叫んだが、まったくドールの言う通りだ。普段金と食べ物と『おねーちゃん』という部類の女性の話しかしない彼にしては冴えている。しかも寝起きなのに。
「とりあえずあなたたち二人で捜査にあたって欲しいの。今、手が空いてるのはあなたたちしかいないのよ。それじゃあ、よろしくね」
 ドールは用件を済ますとさっさと部屋から出て行ってしまった。
「はあ。またお前とかあ。たまには麗しのドールちゃんとも組んでみたいんだけどな」
 彼がそう言うのも無理はない。よほど忙しい時でない限り、コンビで行動するのがここの主流で、大抵の場合、ドールはモンスターのコットンと、そしてレンはメカのラビットと行動を共にする。結果として余った私とヒューズがやむを得ずコンビを組んでいるというわけだ。
 どうせなら私もレンやドールと組みたいのだが、未だに願いは叶っていない。コットンと組んで吸収のチャンスを狙う、というのもなかなか捨てがたいのだが、この人員不足の中で減らしてしまうと、さらに時間に追われる生活になってしまうのは目に見えているので、今は我慢している。別にコットンでなくてもティディ種なら何でもいいんだが。
 ちなみに、ラビットとは一度組んだことがあるのだが、奴が犯人の弾丸を受けて故障してしまい、搭載していたミサイルから銃までを無差別発射するというひどい目にあったことがあるので、それ以来、申し出があるたびに丁重に断りを入れている。
「まあ、しょーがねえな。
 おい、サイレンス。綺麗なおねーちゃんが引っかかったら俺に回してくれよ。約束だぞ」
 いつもと同じことを言って、ヒューズはいきなり私の小指に無理矢理自分の小指を絡めて上下に振った。『指きりげんまん』というらしい。人間が約束をする時の風習の一つだ。
「さあ、そしたらさっそく出かけるか。とりあえずクーロンに行って、それからシュライクだな」
 ハンドブラスターを確認するヒューズの横で、ドールが置いていった捜査資料を丁寧に折りたたんで、朝食が入った巾着へ入れる。ついでにハンドブラスターも中に入れ、巾着の口を閉めようとしたところでなぜかヒューズに止められた。
「おいおい、いつも言ってるだろう? ブラスターは懐に隠してなんぼだって。かわいらしい巾着からそんな物騒なもんが突き出てたんじゃ、おねーちゃんも寄ってこないぜ?」
 大きなお世話だ。第一私には妖魔の剣がある。
「だからって犯人一突きにして殺しちまったら意味がないだろう? 悪いこと言わねえから、とりあえずブラスターを巾着にしまうのは止めろ」
 あまりにも真剣に言うので仕方がなく懐へと場所を移動させる。ごつごつとしていて気持ち悪い。
「よーし、それでOKだ。じゃあ、行こうぜ!」
 ドアを開ける音も軽やかにヒューズは部屋を飛び出していく。扉がロックされる音を確認してから私もその後に続いた。
 受付の前まで来ると、先に行ったはずのヒューズが受付担当の女性と話をしていた。
「そんなわけでお仕事だからエールをちょうだいよ。俺のほっぺにプチュッとさ」
「もう、何度言われてもそんなことしません! それより早く仕事に……あ、サイレンスさん」
 私を見つけたとたん、彼女は微笑んでぺこりと頭を下げた。
「その巾着、使ってくださってるんですね」
 その一言にヒューズの顔色がさっと変わる。
「な、なんだってー!? サイレンス! その巾着をよこせ!」
 よこせと言われても、なかなか使い勝手のいいものを手放す気にはなれず、後ろでわめくヒューズをほったらかして、私はパトロール専用のシップ発着場に向かって歩き出した。
「お仕事がんばってくださいね、サイレンスさん!」
「おいこら待て! どーいうことだッ! おい、待てって言ってるだろうが!」
 二人の大声が閉まりかけの発着場の自動扉の向こうで聞こえた。

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