◆Reason Inside
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 遠い水平線に沈む夕日が消えたところで、白い妖魔はふと嘆息した。別に気を詰めて見つめていたわけではない。ただ、ふと夕日に目を向けた瞬間から、目が離せなくなってしまった。それだけのことなのに、もうかれこれ半刻近く、消え行く間際の輝きを見つめていたようだ。それに気付いたとたん、どっと疲れたような気になり、彼は草の上へと寝転んだ。

 ふと頭だけを起こしてみれば、湖の対岸――先ほど夕日が沈んだ場所から少しばかり左手――にゆらゆらと漂う小舟が見えた。ああ、人間か。そんなことを聞く者もいない中、小さな声にしてみる。このリージョンでは当たり前の光景だ。もちろん、興味をそそられることもなく視線を空へと戻す。訪れる藍色と未だ残っている橙色が奇妙な色合いを作り出していた。

『早く帰ろう』
『妖しにさらわれる』
『二度と帰って来られない』
『母さんのご飯も食べられない』

 彼の後ろ、うっそうと茂る奥の森からそんな歌声が聞こえる。子供たちが家に帰るのか、歌の合間に甲高い笑い声が入り込み、それが少しずつ遠ざかっていくのをどこか懐かしげに聞きながら、では自分も帰ろうか、と彼が体を起こしかけたその時、ふいに空間の歪みが感じられた。

「誰だ」
「誰だとは不躾なもんだ」

 言いながら現われたのは人の姿とは程遠い緑色の肌をした妖魔だった。独特の悪臭にとっさに邪妖だと気付いたが、口には出さず軽く眉を顰めるだけで済ませる。

「人間の子供のうまそうな匂いがしたんだがな、仲間の気配がしたもんで来てみりゃあんたがいたってわけさ」

 そう言って男は下卑た笑いをこぼして、白い妖魔の全身を嘗め回すように見た。

「それに、あんたのご馳走に手を出しちゃ悪いしなあ」
「私には人間を食らう習慣などない」
「へえ、そうかい。なら、あの獲物はもらってもいいんだな」

 こちとら腹が減ってるんでな、と付け加えてすぐさま男は転移を始めようとする。それを見た白い妖魔がその腕を慌てて掴む。

「何だい?」
「あの子供たちに手を出すな」

 その言葉に邪妖は一瞬驚いた顔をしたが、それが笑い声に変わるまでに一秒とかからなかった。

「あんた馬鹿か?」

 そう言って腹を抱えて笑う邪妖にも勤めて冷静に白い妖魔は、あの子供たちに手を出すなということをもう一度繰り返す。そこから食う、食わないの押し問答が続く。どちらも一歩とて譲らぬままだったが、やがてそれも邪妖が白い妖魔の体を突き飛ばしたことで状況が変わった。

「いちいちうるせえ野郎だ」

 そう吐き捨てて転移しようとした男だったが、周りの空気が震えたことに気付いてふと動きを止めた。

 大きく空間の歪む感じ――先ほど邪妖が現われた時とは比べ物にならないほどのもの――がして、二人そろってはっと息を飲み、その一点を凝視する。やがて、そこに一人の男が現われた。人の血のように赤い髪を後ろで軽く結わえ、真っ黒な服に身を包む男。だが、先ほど以上に、白い妖魔が眉を――いや、顔全体をしかめたのは、その体から溢れる花の香りのせいだ。

「やあ、こんなとこにいたのかい」

 そう言った男を二人はそれぞれ違った顔で見つめた。一人は意味を解さないまでも憮然とした表情、もう一人の顔に浮かぶのは恐怖のみ、今にも死んでしまいそうな表情。それが何を表すのかは明確だった。

「そうそう、君ね。オルロワージュ様から命令を預かってるんだ」

 当然といった顔で妖魔の君の名を出した紅い妖魔の一言に、邪妖はその顔をいっそう引きつらせた。

「お、俺に何かご用でしょうか。黒騎士さま……」

 うめくようにそう返したものの、彼がこの紅い妖魔に怯えているのは誰でもわかる。今や膝をつき、何か懇願するように追跡者を見つめ、まるで命乞いをするかのように手をすり合わせる。しかし、それに対して紅い妖魔は軽く笑い声を漏らしただけだった。

「そう怯えるもんじゃないよ。別に命までとったりはしないさ。ただ――もう金輪際ファシナトゥールに近づかないと約束するんならね」

 そこまで話が進んでようやく、白い妖魔は紅い妖魔がここに現われた理由に気付いた。通りで見慣れない表情だと思った。何より、彼との付き合いは長いが、仕事に従事している時の彼などほとんど見たことがない。

「約束するね」

 その言葉は言い聞かせるようで有無を言わせない。いや、有無を言わせないのは彼の格が高いのもある。そうとなれば、この邪妖ができることはただ一つ。慌てて首を縦に振るとあっという間に姿を消した。

「――さて」

 一瞬の出来事をさっと見送り、紅い妖魔がようやくもう一人の妖魔へと向き直った。「今度は君だ」

 それに白い妖魔がその淡い紫の瞳を見開いた。なぜ自分が問い詰められる立場にあるのか。自分が何をしたのか。そう言いたげな視線を振り払い、突っ立ったままの相手に座るよう促すと、紅い妖魔もまたフロックコートの裾を優雅に翻しながら隣に腰かける。

「あいつとは知り合いかい?」

 最初に投げかけられたのはそんな疑問だった。それに白い妖魔が首を横に振って答えを示す。それからはまるで尋問のように、次々に質問が繰り返されたが、それにも白い妖魔は一言も口をきかず、ただ首を振るだけで答え続ける。


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