◆case of ASELLUS


 また会えるといいね。そう口にしようとしてアセルスは慌てて言葉を飲み込んだ。今の自分の状況を考えれば、そう簡単に言える言葉ではない。もっと、ずっと先のこと。状況が落ち着いて、そしてまた言葉通り「会えた」時のためにある言葉なんだと思い直す。

「アセルス姉ちゃん、本当に行っちゃうのか?」
「ごめんね、烈人くん。今はまだ、詳しいことは話せないんだ」
「そっか……。ま、姉ちゃんが生きてたってわかっただけでもいいよ」

 そう言って烈人が笑う。

(ああ、大人になったんだな)

 その笑顔に十二年という歳月を改めて感じた。あの頃、自分のずっと下から笑いかけていた子供は、十二年の時を経てこんなにも成長したのだ。それがたまらなく嬉しくて、そして少しだけ寂しかった。

 この十二年。アセルスの中では記憶にないその年月も、烈人にとっては大きな時間だった。それは、子供から大人へと変わるには十分すぎて、再会した時、まるで別人のようだとアセルスは思ったものだ。だが、人の本質は変わらない。目線は上から受けるものになったにしろ、投げかけられた笑顔はあの日の人懐こいもの、そのままだった。

* * *

「小此木さんちにね、男の子が生まれたんだって」

 学校からまっすぐ本屋へと向かったアセルスを出迎えたのは、誰よりも大好きなおばだった。

「それでねえ、小此木さんたらねえ」

 くすくすと笑いながら、その時のことを教えてくれる。

 今朝、小此木家に家族が一人加わった。3500グラムと、少し大きめのその赤ん坊は、早速『烈人』という名前を与えられ、母と一緒に眠っているという。退院するのはもう少し後らしいが、昼過ぎ、頼んでいた本を受け取りに来た小此木博士――赤ん坊の父親――は、開口一番、こう言ったそうだ。

「聞いてくださいっ。生まれたんですよ!」

 普段からは想像できぬほど興奮してそう言った彼は、生まれたばかりの赤ん坊の話をするのに夢中で、取りに来た本を忘れていってしまったらしい。

「それで、悪いんだけど届けてくれないかしら」
「いいよ。小此木さんちでいいの?」
「そうねえ。あの様子じゃ、病院にいるんじゃないかしら。確か中央病院に入院してるって」
「わかった。いってきまーす」

 一度自宅に戻り、お気に入りの自転車にまたがって言われた場所へと向かう。風を切りながら進めばものの十分で、この町で一番大きい、真っ白な壁の建物へとたどり着いた。

 案内された病室の扉を叩けば中から聞き慣れた声が返事を返してくる。

「あれ、どうかしたのかい?」
「博士、本忘れて帰ったでしょ。ほんとにドジなんだから」

 そう言ってやれやれとばかりに本を差し出せば、中からくすくすと若い女性の笑い声が聞こえてきた。

「今朝からずっとこの調子なのよ。子供みたいにはしゃいじゃって」

 もう、パパなのにね。そう言った女性の顔はアセルスもよく知っていた。だが、この間までとは少し違った感じがする。

(お母さんになるって、こういうのなのかな)

「別にいいじゃないか……そうだ! 烈人を見ていくかい?」
「え? いいの?」
「もちろんだよ! さあ、こっちだ」

 そのまま、奥さんに別れを告げて廊下を歩いていけば、右手にガラス張りの新生児室が見えた。

「ほら、あそこ。小此木ベビーって書かれてるだろ」

 彼の指差した方を見れば、なるほど何人も並んだ赤ん坊の中に、少しだけ大きな子がいた。まだ赤い頬。袖から出るか出ないか、きゅっと握られた小さな手。真っ白なシーツに埋まるように眠っている赤ん坊はまだ当分は目覚めそうにない。

「こんにちは、烈人くん」

 初めて見る生まれたばかりの赤ん坊に、アセルスは小さな声で挨拶をした。これが、アセルスと烈人、二人の出会い。


「もうっ! 本当にいたずらばっかりして!」
「だってさあ、あいつが最初にやろうって……」
「男なら言い訳するなっ」

 頭ごなしに叱りつけると、烈人は驚いて頭を抱えた。殴られると思ったらしい。

「ばーか。殴ったりなんかしないよーだ」

 ふざけてそう返せば、頬を膨らませた烈人と顔が合う。いかにも「だましたな!」と言いたげな視線に、アセルスは自然と笑いが漏れてきた。

「まったく、そんなに弱虫だったら正義の味方になんかなれないよ」
「よ、弱虫じゃないやいっ」
「へえ、そうなんだ」そう言って拳を振り上げれば。「ほらね」
「あ、アセルス姉ちゃんのばかー!」

 再び頭を抱えてしまった烈人は、だまされたことがわかってさらに顔を真っ赤にして怒鳴るが、七歳と十七歳では力の差は歴然。こつん、と額を叩かれて、ぶうぶうと文句を言うよりほかにはないのだ。

「そんなことよりほら、後ろ乗りなよ」

 日が暮れちゃうよ、と続ければ、烈人は慌てて公園のベンチにほったらかしていたランドセルを取って、自転車の荷台へとまたがる。

「ちゃんとつかまってるんだよ――それ!」

 夕日が山の間へと沈んでいく中、烈人の家へと続く緩やかな上り坂を進んでいく。自分の制服を掴む小さな手に、あと何年こんな日が続くのだろうと思ったのも、もう過去のこと。

 翌日、おばから頼まれた用事を済ませた帰り、アセルスはいなくなった。誰にも何も言わずに姿を消した彼女を、知らない人間についていくような子じゃない、と誰もがそう思い、あちこちを探して回ったが、結局アセルスを見つけることは誰にもできなかった。

 それから十二年。思いもかけない場所で、烈人はアセルスと再会することになる。このキグナスの中で。


「また会おうな!」

 烈人の言葉にはっとしてその顔を見ると、そこには変わらぬ笑顔があった。博士に似てきたな、なんて思いながらあいまいに返事をして、果たしてそんな日は来るのだろうか、と後ろ向きな考えが頭をかすめ、アセルスは強く首を振った。

 そんなことを考えちゃだめだ。私は、今の自分にきちんとけじめをつけて、もう一回人生を歩んでいくんだ。

 そう決めて顔を上げ、アセルスは大きく手を振る。

「またね!」

 アセルスに負けじと大きく手を振って見送ってくれる烈人に別れを告げる。出口へと向かえば、シップ発着場の広い待合室を赤く染める夕日が、アセルスにも、そして烈人にも降り注いでいた。

 いつか、また会える。いや、また会おう。そんな二人の願いが叶うのかどうか。

 真っ赤に燃える夕日に問いかけてみても、まだ答えは返ってこない。


|| THE END ||

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