◆case of ZOZMA


 いくら温厚な僕でもさすがに怒るよ。

 喉まで出かかった言葉を必死に飲み込んで、ゾズマは目の前の男にちらりと視線を注いだ。注がれた方は注がれた方で、額に青筋を立てながらも余裕ある笑みを作ろうと顔を引きつらせている。だが、それはゾズマも同じことだ。

 一触即発という言葉をここで使わなければどこで使う。ぴりぴりとした空気に、周りで様子を伺っていた数人の顔もどこか青ざめて見える。かわいそうに、この場にたまたま居合わせただけで、ここまでの緊張を強いられることになるなんて誰が思っただろうか。

 空気が悲鳴を上げて引き裂けそうなこの緊張。それを先に破ったのは青い服を着た術士だった。

「たかが妖魔にここまで言われるとはな」
「『たかが妖魔』だって? たかが人間がよく言うよ」

 言っては返す。このやり取りが始まったのはもう十分も前のことになるだろうか。延々と続く言い合いの行方を知りたがる野次馬が集まってきていたが、皆その場を動くことができずに遠巻きに眺めているだけだ。

 事の発端は些細なことだった。陰陽術の資質取得のために存在するリージョン・ルミナス。地平線に沈むと同時にまた顔を出す月がぼんやりと照らし続けるこのリージョンのシップ発着場から少し奥まったところにあるこのオーンブルへと続く道の入り口で岩に腰かけ、のんびりと鼻歌など歌っている男がいた。紅い髪を天をつくように結わえ、奇抜な――というよりも珍妙なファッションに身を包んだこの男の前を何人もの資質取得希望者が通り過ぎたが、あえて見つめることはしなかった。むしろ、目を合わせないようにしていた、というのが正解だろう。

 だがそこへやってきた一人の術士は、まるで珍しい物でも見るかのように男に視線を合わせた。しかしそれだけなら、上級妖魔であり余裕たっぷりだと自負するこの男が機嫌を損ねることなどなかったはずだ。問題はその後にある。

 青い法衣を着た若い男はじろじろとゾズマの全身を眺め、やがて目を逸らした。そして次の瞬間、ゾズマのでたらめな鼻歌がぴたりと止んだ。止めたのは他でもない、青い術士が漏らした笑いだ。

「ちょっと、君。今僕を鼻で笑っただろう?」
「だからどうした」
「だからどうした、ってねえ。それが気に食わないな」
「気に食わんのはお前の勝手だろう。そもそも、笑われるような格好をしているお前が悪い」

 顔を合わせて数秒後にこのやり取りを交わした二人に残っていた道は一つしかない。

「君、なかなかいい度胸してるね……」

 普段よりワントーン低いゾズマの声が、静かな場に響いた。


 そんなことから始まった言い合いはもはや初めのものとは違っていた。最初は互いの服装をなじるだけのものが、今やそれぞれの種族を罵倒し合うようなものにまで発展し収集する気配がまったくない。それどころか、無意識のうちに二人そろって腰に下げた剣に手をかける始末だ。あんな些細なことから流血沙汰になってしまうのか、流れるのは赤い血か青い血か、それとも両方が混ざることになるのか。緊張した面持ちで皆が見つめる中、先に青い魔術師がけしかけた。

「偉く大きな剣を持っているが、振り回すしか能のない馬鹿か?」

 それに対し、紅い妖魔も剣をゆっくりと引き抜きながら言葉を返す。

「言ってくれるね。そんな細腕でこの剣の相手をするつもりかい?」
「振り回すだけの剣などたかが知れてる。俺の腕をなめてもらっては困るな」
「そっちこそ、元黒騎士の僕をなめてかかるのはよした方がいいよ」

 言う間にもどんどん二人の剣は引き抜かれていく。するすると鞘から抜けていく剣が光を反射し合い、さながらけん制するかのように相手の顔を映し出す。やがてその切っ先が姿を現そうとした時、ふいに割ってはいる声があった。

 すぐさまその場にいた者の視線がすべてそこに注がれる。

「やり合うのはそこまでにしてもらえんかな」

 こつこつと杖の先で地面を叩きながらそう言ったのは、今まで完全に無関心を装っていたオーンブルへの案内人だった。

「そこのお前」

 そう言って杖の切っ先を妖魔に向ける。

「これ以上騒ぎを大きくするのなら、今後一切ここへの立ち入りは禁止じゃ」

 それから、と続けて今度は術士に杖を向け。

「お前も、資質取得は諦めてもらう」

 それは術士にとっては死刑判決に等しかった。彼はすでに陽術を得るすべを失っていたからだ。ならば陰術しかない、とここまで来たのに資質が取れないとあっては、自分の目的を果たすことができない。それはすなわち、自分の死を決定付けることだ。

「……仕方がない」

 うめいたのは果たしてどちらの方か。一人は追われる身である己の数少ない受け入れ先を失い、もう一人は己の目標を果たすすべを失う。それはどちらにしても避けたいことだった。

「この勝負、預けといてあげるよ」
「その言葉、そのまま返してやる」

 口でそう言いながらも時間を巻き戻すかのように剣を鞘に収めていく。剣が鞘に完全に納まった音が辺りに響くと同時に、どっと息を吐く周りの音が重なった。それから数十秒もしないうちに、事の結末を見送ったことに満足したのか、野次馬たちはみるみるうちにいなくなっていった。それに伴い、先ほどまでの緊張が嘘のような穏やかさがここに戻ってくる。

 やがて二人も元の場所へと収まった。青い術士はオーンブルの入り口に、そして紅い妖魔は腰かけていた岩の上へ。

「ねえ、君」

 ふいに妖魔が口を開いた。もちろん相手もわかっていて振り返る。

「よければ名前を教えてくれないかな?」

 勤めて紳士的に発したその言葉に一言だけが返ってくる。だが、ふとできた沈黙の後、同じ声で問いかけが戻ってきた。それに少々驚いたゾズマだったが、快く自分の名前を教えてやる。

 男はその名を何度か呟き、そのままオーンブルへと続く闇へと姿を消してしまった。しかし、最後の言葉をゾズマが聞き逃すはずがない。

「僕も絶対に忘れないよ、ブルー」

 返すように呟いたそのどこか愉快そうな顔を、再び昇り始めたばかりの月が照らしていた。


|| THE END ||

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