◆The Mystery of "Madam Lament"
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手馴れた感覚ですぐに転移に成功した私だったが、そこでふと足元の違和感に気付いた。先ほど調べた時にはアスファルトだったのだが、今は妙に柔らかな感覚に、まず足元を見て、そのまま顔を振り返った先にいたものを見て、相手以上に私が驚いた。男は私の足元の布をしっかりと握り締め、口をぱくぱくさせていたが、私も思わず口があんぐりと開いてふさがらない。まさか、こんなところに人間がいるなんて誰が思うか。ついさっきまではいなかったはずなのに。
だがこうしてはいられない。今もきっとヒューズは必死にあれやこれやと主人を引き止めているはずだ。慌てて、足元の布切れから足を離すと男に詫びを入れて私は路地から飛び出した。見れば、ヒューズの顔にも焦りが浮かんでいる。一刻も早く解放してやらなければ。
「おい、まだか」
一般人の振りをして声をかけると、ヒューズと主人がこちらを見た。
「あら。お連れ様でらっしゃいますか?」
「ああ、ちょっと待っててくれって言ってたんですけど」
そう苦笑いをしてヒューズは主人に頭を下げた。
「どうもありがとう。おかげでいろいろ勉強になりました」
「いいえ、こちらこそ。またお越しくださいね」
そう言うと主人は人当たりのいい笑顔で私にも頭を下げて、店の中へと引っ込んだ。とたんにヒューズが真顔に戻る。
「おい、どうだった?」
何よりもまず結果を、と言いたげなヒューズの目の前に先ほど撮ったばかりの写真を見せてやる。グザヴィエ夫人からこの絵画商へ、そして購入先へと絵画が流れていったという決定的な証拠を何度も確認し、ようやく彼がニヤリと口の端を上げて笑ったのは一分ちょっと経った頃だろうか。
「さすがだな。人間だとこうまでうまくはいかねえ。よーし、今日の昼飯は俺のおごりだ!」
おごりと言ってもそこら辺のファーストフードで蜂蜜をもらってくるだけだろうと思っても、やはり自分のした仕事を評価されるのは嬉しい。こちらもどことなく張り詰めた気分が溶けていくような感じがする。
「じゃあ、行こうぜ」
そうヒューズに促されて私たちは車へと歩き出す……はずだったのだが。
「ちょっと! ちょっと待ってよ!」
な、なんだ? いきなり強い力で肩を掴まれ振り返った先にいたのは、紛れもなくグザヴィエ夫人の尾行をしていたはずのゾズマだった。どうして彼がここに?という疑問を紡ぎだすよりも前に彼がそのよく通る声でまくし立てだす。
「まったく、どこ探してもいないと思ってあちこち飛び回ってたんだよ。せめてさ、移動する時はわかるくらいの妖気くらい発してもらわなきゃ」
「それより何だよ。お前、いきなり何なの?」
一瞬話が飲み込めなかったのか、ヒューズが少しばかり不機嫌そうな声でそう返すと、とたんにゾズマははっとなり、ここへ来た用件を告げたのだが――。
「おい、サイレンス。今すぐヨークランドに戻るぞ。ゾズマ、お前も来てくれ」
「言われなくてもわかってるよ」
話がまとまったところでヒューズの腕を掴むと、頭の中にヨークランドの風景を思い浮かべる。一瞬の後、目を開いたそこにはもちろん、グザヴィエ夫人の家があった。ただ、私たちがここを離れた時とは違う、騒然とした雰囲気に包まれてはいたが。
「おい、みんな!」
少し離れたところから走りよってきたのは、アラン・グザヴィエの様子を見張っていたリュートだ。普段ののんきな顔とは違い、少々顔を青ざめさせながらも、人ごみを掻き分けて進むその後に私たちも続いた。
「誰か通報はしたのか?」
「さっき俺がやってきたよ。で、ゾズマがヒューズたちを探してくるって」
「なら、署のやつらがやってくるのも時間の問題だな」
そんな会話を聞きながら、グザヴィエ夫人宅のドアを開ける。とたんに、むっと鼻をつく生臭い血の香りがした。
「あ、あなたたちは……」
「IRPOのもんです」
夫の遺体の傍ら、真っ青な顔をしたままそう問いかけてきたのは、もちろんグザヴィエ夫人だ。とたんに、なんて白々しいという思いが頭をよぎった。もちろん、ヒューズもその思いは同じだったらしい。
「もう逃げられないぜ、イレーヌ・グザヴィエさん」
ヒューズが腰の手錠に手をかけ、引き抜いた時点でグザヴィエ夫人にも何が起こるのか察しがついたのだろう。とたんに待ってくれ、自分の話を聞いてくれと声を上げたが、もちろんそんな戯言を聞くつもりは毛頭ない。それに、今この場で彼女を弁護する者など一人とていない――。
「ち、違うんだよ、ヒューズ!」
目の前に躍り出てきたのはリュートだった。何が違うと言うんだ?
「あのさ、この人を逮捕する前に俺とゾズマの話も聞いてくれよ、な?」
「何言ってやがんだ、馬鹿! どう見たってこの女が殺してるんだろうが!」
「だから、俺の話を聞いてくれってよ」
リュートを引き剥がそうとするヒューズと、それでも食らいつくリュートの押し問答がどれほど続いたか、ついにヒューズが握っていた手錠を下げた。
「仕方がねえな。サイレンス、その女を見張っててくれよ」
そう言ってヒューズは、リュートとゾズマを引きつれ、いったん外へと出て行った。仕方がなく、私はその場に立ったまま、未だうつむいたままのグザヴィエ夫人を見張る。だが、オフホワイトの服に身を包み、血まみれの夫の手を握り続けるその姿を見ているうちに、ふと何かが頭に引っかかった。何が引っかかっているのか自分でもわからず、彼女の姿を目に映したままじっと考える。何かがおかしい。今、この状況で何かが欠けているような、何かが足りないような気がして、ちらちらとグザヴィエ夫人に視線を寄越しながらも部屋の中を見渡し、ようやく気付いたのは、彼女がふと面を上げた時だった。
どうしてグザヴィエ夫人は、返り血を浴びていないのだろうか。
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