◆Drunk Witness
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「ネルソンに行くのは初めてかい?」
ふいにかけられた問いに頷くと、彼女は「そうか」と一言漏らした。
「いい場所だよ。適度に栄えていて適度に自然があって。何事も適度が一番さ。行き過ぎていいことなんて一つもない」
彼女の言うことが何を指しているのかはどことなくわかった。トリニティのこと、そして何よりモンドの件もそれに含まれるのだろう。私は直接関わったわけではないが、ヒューズから話は聞いている。もちろん、ハミルトン艦長の名前も知ってはいた。だが、それはあくまで情報として、反トリニティの指導者の一人としてだ。
トリニティに属しているIRPOではネルソンはまるで反トリニティ主義者という悪の巣窟のように言われているが、それもまた真実であり真実ではない。このハミルトン艦長自身も、『世界の治安を維持する』トリニティ・IRPOの要注意人物としてリストアップされてはいるが、実際にどうこうした、犯罪を犯したという記録はない。ただ反トリニティのリージョン、ネルソンの艦隊のトップというだけで、危険因子だとその名を挙げられている。
トリニティというのも不思議な組織だ。他の種族が治めるリージョンに関してはほぼ不可侵だというのに、こと人間のリージョンだというだけで従っているから良い、反しているから悪いと決めつける。ネルソンがオウミとだけシップの運航契約を結んでいるのは、トリニティができる前からオウミ・ネルソン間に交流があったからだが、どうやらトリニティ本部はそれでさえもあまり良しとは思っていないようで、未だにトリニティとオウミの間での騒動が新聞の紙面を賑わすこともある。
こうして混沌の中浮かんでいるリージョンの間には何の境もないのに――そんなことを考えているとふいに辺りの景色が一変した。暗い中、はるか下の方に街の明かりが点在する。どうやらネルソンは今、夜のようだ。
激しい振動と共にシップは着陸した。シートベルトを外して外へと出ると、かすかながら不思議な香りがする。近くに何かあるようだ。
「あッ! 艦長、どうなされました?」
発着ロビーにいた係員にハミルトン艦長が歩み寄ると何か二言三言話している。聞こえてくる単語を読み取ると、私のことについて説明しているようだ。その間も彼の視線はちらちらとこちらに投げかけられる。視線の先をたどってみると、どうやら私を見ているのではなく、私のつけているIRPOの腕章へと向けられているのがわかった。よくよく考えてみれば、IRPOがこんなところに来るはずもない。この腕章を見た人間もあまりいい気にはならないだろう。そう思って腕章を外し、ポケットへと押し込んだところで話を終えたハミルトン艦長がこちらへと歩いてきた。
「すまないね。待たせちまって」
彼女に促されて発着場を出ると、先ほどの香りがぐんと強くなった。いい香りだ。すっと吸い込み吐き出すと、じんわりと鼻腔にその香りが残る。
「海の匂いは好きかい?」
そう言ってハミルトン艦長もまた深呼吸をした。これが『海』というもののの香りなのか。吸い込むだけでなぜか心が落ち着いてくる、不思議だが温かい香りだ。
「ここいらは港だけどね、ちょっと離れたところに砂浜もあるんだよ。よかったら今度遊びに来な」
あの馬鹿も連れてね、と笑う彼女の誘いは非常に魅力的だ。海というものは湖よりも大きいという。話に聞いたことはあるが、まだ見たことはない。水平線をどこまで行っても途切れないというのはどんな感じなのだろうか。それを抜けるとどこに行くのだろうか。一度、実際にこの目で確かめてみたい。
ハミルトン艦長の言っていた知り合いの家は、シップ発着場から車で二十分ほど行ったところにあった。目を見張るほど馬鹿でかい家が立ち並ぶ中の一軒の前で車を止め、呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして茶色のガウンを身にまとった、ハミルトン艦長と同年代の男性が出てきた。何でも、彼女の昔の仕事仲間だという。
彼に促されて応接間に入り、柔らかいソファへと腰を下ろす。非常に座り心地がいいが、肌触りから言ってかなり高級なものではないだろうか。……欲しいと思ったが、私の給料では手が出せそうにないな。
「仕事の途中なんでね、あまり長居はできないんだけど」
そう言って私の代わりにいきさつを話してくれた艦長に応えて応接間を後にした男は数分後、少し大きめの鉢植えに入った植木を持って戻ってきた。まさしく、被害者の家にあったのと同じ酔芙蓉の木だ。
「へえ。こんな小さなものもあるのかい」
ハミルトン艦長が目を見張った。何でも、この鉢植えは観賞用に小さくされたものらしい。
「本来なら庭の木から苗木を取るのがいいんだが、育つのに時間がかかるからねえ」
土がこぼれぬように、と袋に入れて手渡してくれたその鉢植えを受け取り、そこを後にした。もちろん、厚く礼を述べてからだ。家の主人はおおらかな人で、また欲しかったらいつでも取りに来いと言ってくれた。そうだな。この小さな鉢植えを自室に飾るのも悪くない。この事件が終わったら、改めて礼を届けると同時に一つばかりねだってみようか。
「さて、あんたはどうする?」
ハミルトン艦長の話によると、オウミまで送れることは送れるが、少しだけネルソンで用事があるから待ってもらうことになる、とのことだった。三十分や一時間くらい待ってもよい、と思ったが、オウミに置き去りにしてきたヒューズのことを思い出し、慌てて首を振った。そうだ、こちらも早く用事を済まさなければ。何より、次に会わなければならない男は、おそらくすぐに会えるだろうが、仮に出かけられているとすれば、どこにいるのかまったく見当もつかない。
彼の名を出すと、すぐにハミルトン艦長は頷いた。どうやら彼を知っているようだ。それに少し驚いたが、彼がモンドの件で手を貸してくれたと言う話を聞いて納得がいった。いかにもお人よしの彼らしい。――とそこまで言うほど親しい仲でもないのだが。
尽力してくれたハミルトン艦長に別れを告げ、次の目的地へと転移を始める。ネルソンの藍色が少しずつ薄れ、やがて別の景色が現れる。見えた星空に一瞬、転移に失敗したのかと己を疑ったが、それも一瞬のこと。すぐそばに聞こえたのどかな羊の鳴き声が、私の疑問を吹き飛ばしてくれた。
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