◆The Adventure of the Aimed Man
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その事件が飛び込んで来たのは、トリニティの第七執政官モンドの謀略が終わって数ヶ月、そろそろ季節が夏へと移り変わろうとしていた頃だった。
いつものように特別捜査課の扉を開けた私の耳に飛び込んできたのは相棒――『クレイジーヒューズ』の愛称で有名なロスター捜査官――の豪快ないびきだった。大きく広げられた口からは唾液が零れ落ち、革張りのソファに水溜りを作っている。この部署唯一の女捜査官であるアイシィ・ドールことタリス捜査官に見つかったらただでは済まされないだろう。
だが起こすのも面倒。なんせこの男は驚くほど目覚めが悪いのだ。寝起きの彼の凶悪さを、この部署で、いや、このIRPO内で知らない者はほとんどいない。かくいう私もここに入って間もない頃にその洗礼を受け、『触らぬ馬鹿に崇りなし』ということを学習したクチなのだが。
……いかん。あの時のことを思い出したら腹が立ってきた。今まで数百年生きてきたがあんな屈辱は初めてだった。いくら世話になった人間とはいえ、その場で妖魔の剣に吸収してやろうかと思ったほどだ。しかし残念ながら、人間は吸収できない上に、例え吸収できたとしても役に立ちそうな憑依能力もなさそうだったので諦めた。今は別の方法で何か一泡噴かせられないものかと思案中だ。
ようやく怒りが収まり、彼のいびきを背中に受けながら自分のデスクの椅子へと腰を下ろす。壁にかけられた時計を見ると針は午前七時半を指していた。廊下では夜勤明けの者たちが交代を終えて雑談を交わす声がざわざわと聞こえるが、その半分は後ろで響くいびきにかき消されている。まさしく、爆音というものはこういうものを言うのだ。静かな部屋で朝食を、と思ってこんな朝早くに来たのに、まったく今朝はツイてない。――仕方がない。屋上に向かうことにしよう。
* * *
屋上は爽やかな朝の日差しに包まれていた。ありがたいことに誰もおらず静かな上に、さっぱりとした風が吹いていて、まこと朝食にはうってつけだ。明日からはしばらくここで朝食を摂ろう。
持参した巾着を開けると、蜂蜜の入った小瓶を取り出す。蜜蜂の描かれた瓶の中には黄金色の液体が揺れ、それを見ているだけで口の中に唾液が溢れてくる。数年前に同じ特別捜査課のレンにもらったハンテンボクの蜂蜜だ。彼の出身であるヨークランドの隠れ特産品(と彼は言っていた)らしい。
生まれてこの方レンゲやリンゴの蜜ばかりを吸って生きてきた私は、初めて舐めた時にこの蜜のさらっとしていて、それでいて花の蜜を直接すするのとは違った濃厚な感触に衝撃を受けた。それ以来、病みつきになりケース単位で買っている。
食欲が抑えられなくなり、瓶のふたを開けると、持参したストローを挿して一気に吸い込んだ。それと同時に口の中に広がる柔らかな甘み。
ああ、これだから止められない。やはり蜂蜜はハンテンボクに限る。
レンはこの木に咲く花が良いなどと言っていたが、見て楽しむだけの花なんかより蜜の方が腹が膨れていいに決まってる。まったく人間の感覚というのは未だに理解できない。
「ちょっと、サイレンス。こんなとこにいたのね」
至福の一時を破ったのは、そんなドールの一言だった。目を開けると下へと続く階段の扉にもたれかかった彼女と目が合った。頬がほんの少し上気しているところを見ると、どうやらヒューズに対する制裁は終わったらしい。
「お食事中悪いけどちょっと来てちょうだい。新しい事件が舞い込んだの」
今度は何だ。殺人か? それとも窃盗か? まあ、何であろうとこちらに回ってきたということは、それだけ特異な性質の事件であることに変わりはない。
やれやれ、今度はどのぐらいかかるのか。そんなことを考えながらせっかくの朝食をしまいこみ腰を上げる。
この仕事の悪いところはゆっくりと休息が取れないところだ。三日や四日寝ずにいることなど妖魔にとってはどうってことはないのだが、腹のすいた時にゆっくり食事を取れないのは少々辛い。ちょうど今のように、ゆっくり食事を摂っている時に事件が舞い込むなど日常茶飯事なのだ。
これも全て人員不足故なのだが、特別捜査課は請け負う事件も特殊、ということもあってか、なかなか人員の補充ができないのが現状だ。現に、今のうちの部署での最低年齢はヒューズの口利きで入ってきたレンであり、彼が入ってきてからの三年間、一度も人員が補充されたことはない。
「さあ、早く!」
ドールに急かされて慌てて階段を降りる。途中でエレベーターに乗り換え、ようやく部屋に戻ってくると、いきなりヒューズに肩を掴まれた。
「おい、サイレンスぅ〜」
何だ。そんな恨めしい目で私を見るんじゃない。
「あのさ。俺、昨日の晩メールしたよな? お前が来た時に俺が眠ってたら、ドールが来る前に起こしてくれってさ。お前もわかったって顔文字付きで返事くれたよな?」
そんな約束したか? ――ああ、そう言えば昨日寝る前にそんなメールを見たような気もするが、いかんせん五日間ほぼ不眠不休で働いた後だったから眠気が先立って何と返したのかなど覚えていない。
「おいおい! こんな時までだんまりかよ! お前のせいでなあ、俺はドールに――」
「サイレンスのせいじゃないでしょ。あなたのこの閉まりのない口さえなかったら、こんなことにはならなかったんでしょう!?」
言うなりドールはヒューズの頬を掴んでひねり上げる。元から歪んでいる彼の顔はさらに歪み、悲鳴を上げる声もどこか間抜けだった。
ようやく開放されたヒューズはぶつくさと文句を言いながらもデスクに腰を下ろす。先ほどのも加わって、彼の顔は右目に殴られたあざ、そして左頬には指の跡がくっきりと残り、なかなか壮観だ。
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