◆幸福のアクアリウム
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目の前に広がるのは深い蒼。話に聞いている兄の瞳も、きっとこんな色をしているのだろう。そんなことをルージュは思った。
ガラスを隔てた向こうには、まるで空を飛んでいるかのように、大きなエイがひれを羽ばたかせて悠々と舞う。その横を小さな魚たちが群れをなし、やがて正面にやってきたまだら模様のサメを避けるかのように上下に分かれ、相手が通り過ぎたところでまた合流する。もちろん、サメもそれをわかっていて、決して口を開けることはない。のんびり、ゆったりとひれを動かしながら、その体では少々狭い水槽の中を泳ぎまわる。
初めてここを訪れたのはもう三ヶ月も前になるだろうか。
「お前、水族館行ったことないの?」
目を丸くしてそう聞いてきたのは、ここ、シュライク出身の少年だった。それにルージュは首を振る。生まれてこのかた、学院から半径10kmの距離しか移動したことがなかった上に、故郷には「魚を見て楽しむ」というのは、個人的な趣味でしかなかったためか、そのような娯楽施設は存在しなかった。もちろん、それは術が全てというマジックキングダムの特性もあったが、外遊に出てからも何だかんだと巻き込まれ、そんな施設を知る余裕すらなかったのだ。
「だったら連れてってやるよ!」
勢いよくルージュの腕を掴み、彼は町の中心部にある水族館に連れてきてくれた。そして踏み込んで一歩、蒼色が支配する静かな空間に魅了されてしまったというわけである。
それからというもの、暇さえあればルージュは水族館に通った。入るのにそんなに金はかからない上に、自分でも驚くほど時間が過ぎるのが早く感じる。これはいい暇つぶしになると思ったのは初めの頃だけで、いつしか、この場所が自分にとってもっともリラックスできる場所となっていることに気付いた。
悠々と泳ぐ魚たちは、確かに水槽の中に閉じ込められた存在だった。それなのにどうだろう。この、自由きままを感じる余裕というものは。時には中ほどをゆったりと、たまに水槽ぎりぎりまで迫ってきて、人々の歓喜の声をこれでもかというほど浴びる。海の中で生きているものたちと何ら変わりはないはずなのに、ここの魚たちはそれぞれが己の存在を主張し、認められていた。それを自分と比べていたのだろう。「外遊」という名目で世界各地をうろつけるとはいえ、その先にはどうしても逃げられない試練が待っている。それがどうなるのかは未だわからなかったが、できることなら避けたい、いや、相手を説得して回避したいという考えは日増しに強くなり、その結果、術の資質を集めるという行動に鈍りが出始めていた。
そんな時に出会ってしまったこの場所を「逃げ場」と称しても偽りはない。だが、この深い蒼を見つめているだけで全てを忘れることができる。自分の歩いてきた道に対する疑問も、試練への恐怖も、そしてまだ見ぬ兄への不安も全て。
だからルージュはこの場所が好きだった。日がな一日、ぼんやりと水槽を眺めることがたまらなく楽しかった。
「あら、お兄さん。また来たの」
受付に座っていた中年の女性がその顔をほころばせる。こうも毎日通う客も珍しいと彼女は言う。
「もしかして、意中の人がここで働いてるのかしら」
「いえ、そんなことはありませんよ」
投げかけられた質問に少々驚きながらもそう答えると、彼女は「あらあ」と小さく声を上げた。どうやら読みが外れたらしい。
中で働いている同僚から「珍しい客がいる」と言われた時にはピンと来た。特に何をするでもなく、毎日のように顔を見せる赤い魔道着の青年は、館内の職員の間でもすっかり噂となっており、その目的は何だといろいろ気にしている人もいた。どんな客でも、こう毎日通ってくれると自然と顔も覚えられる。それが、シュライクでは珍しい魔道着なんてものに身を包んでいる者ならなおさらだ。
「あれはキングダムの術士だ」
知っている人間が口にする。
「どうしたのかしら。家出?」
「いやいや。あの格好をして旅をしている人はキングダムでも優秀な人材だっていうよ」
いわば、上層部が金を出して外遊させてるエリートさ。誰かがそう口を挟めば、まあ、と他の誰かが声を上げる。
「水族館に何かあるのかしら」
「もしかして、キングダムに水族館を作る予定なのかも」
「それって視察団ってやつ?」
そう噂をする人々をよそに、一人の青年がぽつりと呟いた。
「だけどあの人、なんか寂しそうだね」
そうかと疑問の声も上がったが、彼の言う通り、水槽を見つめるルージュの目はどこか寂しそうだった。だが、何を思ってそんな顔をするのか。それは誰も知らない。
そしてそれは、ルージュが姿を消したその日まで知られることはなかった。
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