◆夜明け色の世界(3/3)


 それから幾日ばかりは、まるで城主の気持ちに応えるように城は静まり返っていた。そして、根っ子の町の住人たちの口にこの噂が上る頃、またいつもの空気を取り戻していた。門には表情も見せない番人が佇み、時折そこから中級、上級妖魔たちが用事を抱えて飛び出していく。黒騎士たちの訓練の声や、侍女たちが朗らかに笑う声、料理番たちが慌しく食事の用意をする音。全てが元のままに時間に乗ってリージョンを包み込む中、アセルスもまた、訪れる者と言葉を交わしたり、面倒な仕事に文句を言いながら毎日を送っている。

 ただ、寝室のテーブルに置かれたものにだけは触れなかった。あの日、シップが飛び立つ直前、ジーナが手渡してきた包みは、一度開けられたものの、また戻されそのままにされている。

 薄紅色と深い藍の糸が交じり合ったまるで夜明けのような色をした服は、アセルスが目覚めたあの日、仕立て屋で着せられたものに酷似していた。なぜその形なのかは何となくアセルスにもわかっていた。きっとジーナはあの日を思い出しながら一針一針、丁寧にこの服を縫っていったのだろう。二人の関係はまさに、仕立て屋にアセルスが顔を見せたあの日に始まり、そして彼女がこのリージョンに別れを告げたことで終わった。しかしそれゆえに、その関係を象徴するかのような服を、アセルスは直視できないでいた。いくら思いが込められていたとしても、見れば見るほど喪失感が増し、とてもではないが正気でいられない。

 だが、その一心で遠ざけていたものも、気持ちが落ち着くにつれ変わってくる。次第に、最後に彼女が残していったものを着ないわけにはいかないと思うようになっていた。何のためにジーナがこの服を縫ったのか。それは、アセルスに着てほしかったからに他ならない。アセルスもようやくそこに思い至り、紐を再び解くことにした。

 さらりと音を立てながら引き出すと、服はあの日と変わらぬ光沢を放ちアセルスの前に現れた。それを手に取り、腰紐を留め、上着を羽織る。まるで皮膚のようにぴったりと馴染む感触にため息をこぼし、襟をきちんと揃えようやく鏡と向き合うと、そこには美しい服とは対照的に、何とも冴えない頭が乗っている姿が映った。光が消え失せたかのような目と、今まで一度も笑ったことなどないと言わんばかりの唇。それを鏡越しに指でなぞってみると、少し持ち直していた気分がみるみるうちに重くなってきた。こんな顔で服を纏っていると知れば、きっとジーナもがっかりするだろう。今まで幾度となく口にしていた「憧れ」という言葉も色褪せてしまうだろう。

 ならば変わらなければいけない。アセルスはすぐにそう決意した。ジーナが思いを込めてくれたのなら、自分はそれに応えなければならない。そう思ったとたん、驚くほど大きな声が出た。

「誰か、冷たい水を! ボウルにいっぱい!」

 その声は城を駆け抜け、侍女が血相を変えて部屋に飛び込んできた。

「いかがなさいましたか」
「顔を洗いたいんだ。だから」

 理由を口にすると、今度は別の者がタオルを取りに去っていった。やがて揃えられた道具を前に侍女たちが見守る中、水を一すくい顔にかける。とたんに、刺すような冷たさが皮膚を通して全身を駆け巡り、頭の中にあったもやを一瞬で吹き飛ばす。そこですっと息を吸い込み、もう一度、またもう一度と何度も顔に水をかけ、気持ちが十分に治まったところで顔を上げる。冷やされた頬が部屋の空気と触れ合い、自然に背筋がぴしっと伸び、一度大きく深呼吸をする。その頃には全身を包んでいたけだるい感触も消し飛んでいた。

「私、今まで酷い顔してたでしょ」
「えっ」
「でも、ちょっとはましになった?」

 手渡されたタオルで顔を拭き、ちらりと視線を送ると、何と答えたら良いのかと頭を悩ませていた侍女たちが、顔に笑みを浮かべるのが見えた。

「ええ。大変凛々しく美しいお顔でらっしゃいます」

 その声に自然と顔がほころんできた。つい先ほどまでぐっと押さえつけられていた感触ももうない。それが自分でもわかってますます喜びが満ちてくる。

 だがその時、侍女の一人が声を上げた。

「どうかした?」
「いえ、綻びが……」

 そう言って侍女が指差したのは、アセルスが羽織ったままでいる上着の裾だった。見れば細い糸が一本頼りなげに飛び出ている。

「おかしいな」

 いつもジーナの仕事は完璧だった。それが、こんな大きなミスをするなんて。何かあったのか、それとも――。

「これは、留めてありませんわね」
「仮縫いのまま忘れていたのでしょうか」

 テーブルに広げた上着には、一つだけ妙な点があった。内ポケットというにはあまりにもぞんざいな布が、糸で緩く留められていたのだ。しかもどこにも糸を留めている風はない。軽く引っ張ればするすると抜けてしまいそうな状態だ。

 こんなものがついていることは今まで一度たりともなかった。それだけに疑問は強くなる。

「だけどジーナがこんな……」

 しばらく色々な可能性を考え、ついにアセルスがポケットを引っ張った時だった。かさりと小さな音が聞こえ、一瞬皆が顔を見合わせる。確かに音は今、このポケットの内側からした。とたんに誰もが、何があるのかとアセルスの指先に注目し、それに促されるかのようにアセルスもポケットへと指を突っ込んだ。

「これは……」

 出てきたのは四つに折りたたまれた紙切れだった。慌てて開き、そこに思いがけない言葉を見つけアセルスの目がどんどん丸くなっていく。少し丸まった文字は、間違いなくジーナのものだった。見間違えるはずなどない。今まで、納品の紙すら穴が開くほど見つめてはため息をついていたアセルスにはわかる。そこにはジーナ自身の手で、言葉でアセルスに対する想いが綴られていた。曰く、永遠に心を側に置かせてほしいと、この服を己自身だと思ってほしいと。

 自分でもどうすることもできないほど、紙を握る手は震えていた。それほどの衝撃が、この小さな紙のたった三行綴られた文字の中にあった。そう、別れの日を迎え、胸に抱く想いを告げずに離れたのはアセルスだけではなかった。ジーナもまた、アセルスと同じように思い悩み、考え、答えを出していた。そしてこの服を作り上げたのだ。

 ファシナトゥールを離れると告げた時、すでに彼女の中で答えは出ていた。それに気付かず、自分はただ彼女が去ることだけに固執し、時間が経たなければ、その日が来なければいいと駄々をこね、立ち止まっているだけだった。

 自分の愚かさを知り、アセルスは唇を噛み締めた。どうしてあの時、彼女の心を知ろうとしなかった。全てを自分の枠に当てはめて、彼女の気持ちを探ろうとしなかったのか。そんな後悔の念が湧いてきて涙が出そうになるのをぐっと堪え、もう一度手紙の字を辿る。

 ――いいや、まだ間に合う。

 その時、頭の隅でそう囁く声がした。

 ――今ならまだ間に合う。

 そうだ。まだ遅すぎることはない。今なら一度離した手を握り直すこともできる。黙って離れていった彼女と、もう一度見つめ合うことができる。完全に断ち切られたと思っていた糸はまだ、かろうじて繋がっているのだから、それが切れないうちに何としても手繰り寄せなければいけない。手繰り寄せて、抱きしめて。そこから先のことは、その時考えればいい。何もしないでこのまま終わらせることなく、自分の思いつく限りのことをして、納得のいく形にした後、運命の告げる言葉を何なりと受け入れよう。

 そこまで至れば目の前にある道は一本のみ。

「私、出かけてくる」
「ど、どちらへ?」
「ジーナのとこ!」

 侍女たちの戸惑いを振り切るように、上着を掴むと部屋を飛び出す。ばたばたと足音を立て階段を下りていると、ふいに目の前に人影があった。それはぎょっとしたように一瞬目を見開き、すぐに冷静さを取り戻してこう尋ねる。

「いったいどうした」
「ミルファークに聞いて!」

 すれ違いざまにそう告げ、さらに下を目指すアセルスの耳に呟く声が届いた。

「やっと前を向いたか、あの馬鹿が」

 だが、普段なら腹を立てるその口癖も今は心地がいい。どうぞ馬鹿と罵ってくれ。そう言わんばかりに口元が緩む。今なら世界中から指を指され馬鹿と言われても笑って返せる自信がある。目の前にあったものに気付かず、一人陰鬱とした挙句、小さな光が見えたとたんそこに向かって突進する。馬鹿とはまさに自分のことなのだと。

 城の門を目指し動かしていた脚すら、どんどん膨らんでいく気持ちには追いつけなかった。何度も転びそうになり、そのたびに体勢を立て直しながらもついにはそれすら面倒と手段を変える。一秒でも早く彼女に会いたい。その思いのままに、いつか彼女が懐かしそうに話していた故郷を頭に思い描き目を閉じると、ふわりと体が浮く感触と、無限に広がっていく白の世界が訪れた後に、いつも触れているものとは違う、自然を纏った空気の匂いがした。

 それを思い切り吸い込み吐き出す。すると半分残った人間の血が察知したのか、体中の細胞が歓喜の声をあげ、知らず身震いが起こる。

 目を開けるのが少しだけ怖かった。今すでにこんな状態でいるものを、さらに刺激を与えられたら、自分は大きく膨らんだ風船が割れるようになってしまうのではないか。そう思いながらも少しずつ瞼を持ち上げ、やがて見えた世界に感嘆の息を漏らす。

 ――ああ、なんて眩しい。

 一瞬飛び込んできた光に思わず目を閉じかけ、いいやと首を振る。しっかりと目を見開かなければならない。今まで意固地なまでに目を閉ざしてきたのだ。今、ジーナが愛するこの世界を目に映さず、どうして彼女に会えようか。

 その通りだとまたどこかで声がする。それに誘(いざな)われるようにしっかりと見開いた瞳に映ったのは、未だ眠りの中にいる家々と暗い森の、全てを抱きしめたくなるほど、ただ穏やかな風景だった。

 そこに今まさに太陽が昇り始め、空が色を変えていく。静かで深い藍色から、太陽の光が照らす分だけ淡く優しい色に――ジーナが思いの丈を込めて縫い、今アセルスが纏っている、服の色と同じ色に。

 希望の朝を連れてくる、全ての始まりを表す色に。


|| THE END ||

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