◆夜明け色の世界(2/3)


「もう寝なきゃ」

 自室に飾った時計を見てふとため息をつく。

 この針の城で時計があるのはアセルスの自室と時計塔のみ。その塔とてアセルスが不便だと言って作らせた。どうも時間がわからないと落ち着かないのは今までの生活からか。人間臭いと不快感をあらわにする者もいたが、集合が楽になったという声もあり皆が馴染みつつある。

「九時になったら起こしてって、時計番に言っといて」
「はい、そのように」

 笑みを浮かべて一礼したミルファークを見送り、ベッドへと潜り込む。だが寝ようと思いながらも、目はちらちらとテーブルの上にある贈り物へと行き落ち着かない。喜んでくれるだろうかと期待と不安が交互に押し寄せ、結局あまり休めぬままアセルスは仕立て屋に向かった。扉を開けると質素な木の壁に色とりどりの布がかけられ、花の飾られたテーブルにはこの店の面々と、いつもと同じ笑みを浮かべたジーナがいた。今日旅立つことなどまるで嘘かのように、見慣れた服、見慣れた髪型で居るその脇には、それでも少し大きめの鞄が一つ置いてある。その中に彼女のファシナトゥールでの生活のすべてが詰まっているのかと思うと、この期に及んでまだ、鞄を奪い去れば彼女はここに残ってくれるのではないかという馬鹿な妄想が頭を過ぎる。――そんなことをしても現実は変わらないというのに。

「まあ、これを……私に……?」
「もっとすごいの作りたかったんだけど、慣れてなくて」
「いいえ、いいえ! 一生の宝物にします。何があっても絶対に手放しません!」

 花を受け取ったとたん、感極まって涙をこぼしたジーナを見るだけでその気持ちも幾分救われた。少なくとも今、彼女はアセルスがした行為に、余りあるほどの感謝を見せてくれた。それだけで胸がふっと軽くなる。

 半ば奪い取るように彼女の鞄を持ち、シップの待つ場所まで見送りに出た時もそれは同じだった。

「よっ、久しぶり。あんたも変わらないな」
「そういうあんたもね」

 飛ばし屋へと荷物を渡し、隣のジーナに目を移す。

「お手数おかけして……よろしくお願いします」
「いいってことよ。気にすんな」

 二度と行かないと言っていた口で、彼は今ファシナトゥールの定期便をやっている。申請を出しているにも関わらず、何年にも渡り「調査中」としか返事を寄越さないトリニティの代わりに、このリージョンに住む僅かな人間たちの足となることを彼はこうして快く引き受けてくれているのだ。

「もう準備はできてるからな。用が済んだら言ってくれ」

 荷物を運び入れる飛ばし屋にまた一礼し、振り返ったジーナの顔に、もう迷いはほとんど見られなかった。ほんの数ヶ月前、年季が明けたらどうするかとずっと思い悩んでいた頃の彼女はもういない。その過程でアセルスもまた、彼女と自分が今以上の関係になれることはないと悟った。彼女は人間で、自分は半妖。ずっと一緒にいるにはあまりにも住む世界が、そして時間の流れが違いすぎる。例え良い関係になったとして、彼女が死んでからの何百年を一人で過ごせる自信もなかった。それならば今のうちにと思ったのも諦めの理由の一つだ。

 あくまで周りの話からだが、アセルスにも虜化の能力はあると言われている。あのオルロワージュの血を継いでいるのだ、ないはずがないという予想であるだけで、まだアセルス自身も確かめたことはない。だが、ここに至るまでに一度試してみてもいいのではないかと思ったこともある。相手はただ一人、言わずもがな。

 しかし、そうしたところでどうなると打ち消した。操り人形を手に入れても何の感慨も湧かない。アセルスがただただ欲しいと願うのは、今目の前にいる、己の意思を持った人間のそのままの姿だったからだ。

「皆さん、本当にありがとうございました。アセルス様も、本当にありがとうございました」

 最後にもう一度深く頭を下げて、ジーナの姿がシップへと消えていく。それに手を振って見送りながらもアセルスの思考は止まったままだった。ただ網膜にしっかりとその姿を焼き付けようと瞬きもせず、その背中を見つめ続けていた。

 やがてハッチがゆっくりと閉まっていく。丸見えだったシップの中が隠れていき、もう数十秒もしないうちに飛び立つ。

 その時、またハッチが開いてきた。何事かと背後の主人たちが声を上げる。持っていた荷物はもうない。となると、何か忘れ物があったんじゃないかと、一人が店へと向かおうとした瞬間、その場に張り詰めたような声が響いた。――ジーナの声だった。

「アセルス様!」

 転がるように階段を駆け下りてきたその腕には先ほどは見られなかった包みがあった。

「あの、私……」

 息を切らしてアセルスの前まで来ると一度深呼吸をしてから、その包みを差し出してきた。よく見るとそれは、いつも城の妖魔に服を手渡す時に使っている袋だった。サテンの甘いミルクのような色をした布から中の様子は伺えない。ただ、これをジーナがアセルスにと言ったのは今起こった事実だ。

「私、最後にどうしてもアセルス様にお洋服をと思って……。その、ご注文を頂いたわけでもないのに差し出がましいとも考えたんですけど、どうしても……」

 最後にたどり着く前に消えた言葉と共に、押し付けられるように荷物は手の内へと収まった。急に触れた布の感触にアセルスが戸惑っている間にもジーナは再び頭を下げてシップの中へと消えていく。今度こそこれで最後だった。先ほどと同じようにハッチが閉まっていくのが目に映る。だんだんなくなっていく隙間からはもう彼女の姿は伺えない。それに気付いたとたんはっと自分でもわかるほど大きく息を吸い込み、

「ジーナ、ありがとう! 私、大切にするから――」

 礼を言おうと言葉は飛び出たものの、果たして届いたかどうか。がちゃりと音を立ててハッチが閉まり、一呼吸置いて唸るようなエンジン音が辺りに響く。もう何を叫んでもかき消されて聞こえない。二人を繋いでいた細い糸は、今目の前で切れようとしている。彼女は今人間の世界に戻り、アセルスは妖魔の世界に残る。今まで何度も自分に言い聞かせていたことなのに、今更また「何故」という疑問が湧いてくる。どうしてこんなことになったのか。自分が人間に戻ればよかったのか。それとも彼女がこのファシナトゥールに残ればよかったのか。その他に何か方法があったのか。問いかけても答えの出ない堂々巡りを胸に抱えたまま、今目の前に在ったシップは暗い空へと昇り混沌へと消えていった。もうどれだけ名を呼んでも決して届くことのない場所へと行ってしまった。


 後に残されたのは残念がりながらも見送った面々と、未だ空を見つめるアセルス、そしてその腕の中の荷物だけ。

「このこと、知ってたの。だから手紙をくれたの」

 やがて、ぽつりと言葉が零れて地面に落ちた。それに答えるように、背後で僅かに布の擦れる音がする。

「作っていることは存じておりました。ただ、私が口を挟める類のものではないと黙っておりました」
「そう」
「しかし渡しにいく素振りが見えなかったもので、何かきっかけをとは思い僭越ながら……申し訳ありません」
「いいよ。あなたが謝る必要なんてどこにもないよ。ううん、お礼を言わせて。あなたが手紙をくれなきゃ、私ちゃんとジーナにお別れも言えなかった。黙って何もしないでうじうじして、ジーナがいなくなるのを待ってるだけだった。――本当にありがとう」

 そう言って頭を下げたアセルスの目に、驚いてただぽかんと口を開けていた者たちの姿が映った。それもそのはず、一リージョンの統治者が、こんなにも深々と頭を下げたことなど、彼らの記憶にはなかったからだ。だが、アセルスはその姿に小さな笑みを漏らしただけでまた口を開く。

「それから、もう一つ聞いてもいい?」
「……はい」
「今日、私ちゃんと笑えてた?」

 予想外の質問に、皆が顔を見合わせる。やがてそれはリレーのように伝わっていき、最後に主人がふと唇を開いたところで止まった。

「……ジーナは心配性だから。私が情けない顔してたら、きっと戻ってからも気にする――」
「そのことでしたら心配はございません」

 消えかけた声を繋ぐように否定の声があった。

「私が拝見した限りでは、別れを惜しまれるお姿を見せられながらも、いつものように凛々しく、お優しい笑みを浮かべておられました。ですから、きっとあの娘も安心していることでしょう」

 それは、あの手紙に並べられていたような美辞麗句の類ではなかった。理由は、主人の顔を見ればよくわかる。だからこそ、アセルスもほっと息をついた。

「そう、よかった」

 安心したとたん、鼻の奥からぐっと熱いものがこみ上げてきた。やがてそれは雫となり、頬を伝って無表情な土へと吸い込まれていく。

 彼女の前ではせめて笑っていよう。そう決めていた気持ちの分だけ流れ出したものは、後から後から溢れ出て、当分は止まりそうになかった。それを流れるままにしても今は誰も非難しない。この時も、周りは誰も声をかけなかった。濡らしてはいけないともらったものを小脇に抱え、ついには座り込んでひとしきり泣いた後、真っ赤に目を腫らして城へと戻ったアセルスに声をかける者もいなかった。この主が見送った人間にどんな感情を抱いていたのか。そこまではわからなくとも、二人の蜜月に近い関係は知っていたからか。普段ならすれ違いざまに小言の一つでも投げかけてくる側近も、この時ばかりは何も言わず視線を寄越すだけだった。下手に声をかけても何の解決にもならないとわかっていたからだろう。


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