◆夜明け色の世界(1/3)


 鏡に映った顔は見るに耐えない色だった。

 人間の時間にして一月ほど前、この暗い空が支配するファシナトゥールから一人の女が旅立っていった。名はジーナ。十四の時に奉公に来て以来、根っ子の町で七年に渡り針子としてやってきた。厳しくも優しい親方の下で、元からの器用さを活かして多くの服を縫い続け、ついには彼女の作るものならば、と城の上級妖魔たちが名指しで頼んでくるほどになった。

 そのジーナにもとうとう親元へ帰る日がやってきた。皆が残りはしないのかと口々に引き止めたのを振り切ってのことだった。

「本当にお世話になりました」

 最後の日、小さな仕立て屋で開かれた別れの会に、一人だけ妖魔が混じっていた。ファシナトゥールを統べる針の城の城主、元人間にして、今は半妖という数奇な運命を辿ってきたアセルスだ。

 元より、この仕立て屋の主人は妖魔に良い感情はないようだった。支配されるものとして礼儀は見せるが、ふとした仕草にその気持ちが現れることもしばしばあった。それが何ゆえかは定かではないが、仕事を請ける時以外は妖魔と接するそぶりもないことから相当の感情ではあるのだろう。

 その人間からアセルスに手紙が届いたのは、ジーナが旅立つ僅か三日前のことだった。おそらくこのリージョンで手に入る最上級の紙を使い、丁寧な言葉で綴られた手紙は、城の門番から中級、侍女のミルファーク、そして側近と順に城を登っていき、やがてアセルスの手に治まった。

 受け取って、覚悟の上で出したことはすぐにわかった。この城では、人間は王に謁見することなど許されない。先の王オルロワージュが決めたその掟にはまだ従う者も多く、アセルス自身も致し方ないと従っていた。そうでなくとも、妖魔は人間を愚かな者だと嘲笑する。当然、半分人間であるアセルスにもそれは向けられたのだが、オルロワージュの血を受け継いでいること、力があること、そしてこの城の指揮をとる立場の者たちがつき従っていることから皆右へ倣った。逆らう者は自ら城を出て行った。だからこそ、こうして手紙がアセルスの元へと無事届けられたのだろう。本来ならば、どこかで破り捨てられてもおかしくはないものだというのに。

「手紙? 私に?」

 一番の側近であるイルドゥンから手紙を渡され、真っ先に発した言葉はそれだった。

「仕立て屋の主人からだ。お前に手紙を出すくらいなのだから、よほど大事なことなんだろう。心して読め」
「……言われなくってもちゃんと読むよ」

 用件だけ伝えて去っていく背中に思い切りしかめ面をしてみせ、何事かと封を解く。宛名を今一度確かめ読み進めていくも、それは日頃の感謝の言葉とアセルスに対する賛辞に徹していてまったく意味がわからない。一枚目も二枚目もその調子で読み流し、ついに最後だと三枚目をめくっても代わり映えはせず、知らずため息が漏れる。いったい何が言いたいのかと署名に目をやり、下段の追伸へと進んだ時だった。

「ささやかながら、ジーナの旅立ちを祝って会を催します。もしご都合がよろしければ足をお運び願えないでしょうか。それが叶いませんでしたらせめて、あの娘から言葉をお送りすることをお許し願えないでしょうか」

 思わず声に出して読み上げ、もう一度目を通す。間違いなかった。確かに、主人からアセルスへの招待の言葉だった。

 ジーナがこのファシナトゥールを去ることはもう数ヶ月前に聞いていた。数年で奉公も終わるという話は出逢って間もない頃には知っていたし、終われば家族の元に帰るのは当然とも思っていた。そう、彼女には帰る家がある。自分のように、他に行くあてもなく、ファシナトゥールにしか居場所がないというわけではない。

「本当に静かで、穏やかなところなんです」

 いつだったか、気晴らしに彼女を誘って外へと出かけた時、そんなことを言っていた。空の青と森の緑がどこまでも続く本当に何もない場所なのだと。そこで彼女は生を受け、十数年を過ごした後、知り合いの伝手でファシナトゥールにやってきたのだと言う。

「初めは不安でしたけど……慣れるものなのですね」

 今はあの空を眺めるのも楽しみの一つだと笑った彼女に、アセルスは首を振ってみせた。その柔らかな笑顔は、太陽の下にあってこそよく映える。黒とも紫ともつかない空に覆われた世界ではいかに美しいと思えど、本来の何分の一にも満たないものなのだろう。旅を続けていた頃には気付かなかったことも、今ならはっきりと言い切れる。彼女は、こうして自然に囲まれている姿こそが一番美しい。

 それに比べて、と自分の緑の髪を摘み上げる。人間の世界では異形とも取れる姿はすべて、十七年前のあの日受けた血によるものだ。元は栗色だった髪もこうして変わり、そして二度と戻ることはない。

 人間に戻りたい一心で続けた旅だったが、待ち構えていたのは半妖という結末だった。そうなることは途中から薄々わかってはいたが、それでも少しはショックを受けた。もう人間には戻れないということ、それはすなわち、隣に座る彼女とは別世界の生き物になってしまったということだからだ。彼女とは相容れられない世界の住人となった。彼女への想いに気付いた時、その事実にどんなに愕然としたことだろう。

「アセルス様はアセルス様です。それ以外の何者でもありません」

 いつもどちらかといえば言葉を濁すジーナが、一度はっきりと言い切ったことがある。どこかで聞き覚えがあると思って考えてみれば、それは自分自身が父となった妖魔と対峙した時に言ったものだった。それと同じ気持ちを、彼女は自分に対して持っている。それだけを希望として、今日まで彼女への想いを捨てずにいた。だが、それももう終わる。彼女はもう二度とアセルスの手の届かない場所へと行ってしまう。妖魔とは違う、人間の世界で生きていくのだ。ならば自分は、それを見送らなければならない。

「そうだ。フラワーボックスがいい」

 贈り物と言えどもはっきりとしたものは思い浮かばなかった。ただ花が好きだということくらいしか知らない。彼女が自ら何が欲しいなどと口にしたことは、考えてみれば一度もなかった。

「そう。それだよ」

 彼女にはきっと豪華な花束よりもそっちの方が似合う。そう口にした瞬間、脳裏を懐かしい風景が過ぎった。人間として暮していた時の、おばの家の庭に溢れる花の群れ。その中に色を添えていた花の、小さくも誇らしげに咲くさまが、香りまで伴ってやってきた。

「よし。すぐに探しに行こう」

 つとめて明るく声を発すると、すぐさま椅子を飛び降りる。すれ違うミルファークの行き先を問う言葉に適当に返事をして、門を目指してまっすぐ階段を駆け下りていく。

 とにかく今は、余計なことは考えていられない。見送ると決めたのだから、きちんとした気持ちでそうしたい。

 もしかしたら、自分は彼女に、まだ捨てきれない人間への憧れを抱いているだけなのかもしれない。そう思った時期もあったが、今ならはっきりわかる。確かに自分はまだ、人間に戻りたい気持ちを捨てきれないでいる。でもそれは、ジーナという人間と、ずっと同じ場所で生きていきたいからなのだと。それが叶わないのなら、清々しく見送るべきなのだと。

* * *

「お花ですか。それならわたくしが」
「いや、自分で作りたいんだ」

 そんな会話を交わしてから二時間、アセルスは今も小さなかごと格闘していた。花を育てた経験はあれど、それを飾るとなるとどうも苦手で今まで遠ざけていたのが裏目に出た。その方面に長けていると周りからお墨付きまでもらっているミルファークを師にやり始めたはいいものの、どうも彼女のような色合いにならない。ついには、自分にはこのような才能がまったくないのではないかと諦めの気持ちすら浮かんできて慌てて首を振る。何が何でも自分の手で作りたい。その気持ちのままに、挿してはまた抜き、顔を近づけてみたり、椅子から立ち上がり部屋の端から見てみたりとしているうちに何となく雰囲気が掴めてきた。

「これだと少し色がきついね」
「いいえ。華やかですわ」
「でももっと柔らかくしたいんだ」
「ならばこの花はいかがでしょう」

 引き抜かれた紫の花の代わりに淡い黄色が埋められる。だが、アセルスは首を振ると、側の白い花を引き抜いた。

「赤と紫は入れておきたいんだ。でも……無理かな」
「非常に難しいお色とは思います。ただ、色を散らせば映えるものになりますわ」

 言われた言葉にアセルスが首をかしげてみせると、ミルファークは見せるようにと用意していた花瓶から花を一本、また一本と引き抜いていく。選んでいるのはどれもしっかりとした色合いのものばかりだ。

「こうすると」

 そう言ってアセルスが選んだものと似た色を一本ずつ合わせ、周りを白い花で囲む。

「色が際立って華やかな印象になります。しかしここに」

 続けて今度は何本か選んだ上で周りを淡い色でまとめると、とたんに部屋の空気が和むような色合いになる。それこそが、アセルスが求めていた色に一番近い。

「散らすっていうのはそういう意味だったんだね」

 ぱっと明るい笑みを浮かべてかごへと向き直ったアセルスの耳に、時計番が鳴らす鐘の音が聞こえた。約束まであと十二時間もない。そう気付いたとたん顔を覗かせた焦りを無理やり押し込み、一本、また一本と丁寧に心を込めて花を挿していく。これを見てジーナが少しでも笑ってくれるといい、と想いを込め、ようやく納得のいく仕上がりになったのはどれほどか。


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